創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-08 広告の将来についての情熱と理解

同じくグレイ社時代を、やはり、後に彼の右腕となった(ロバート)ゲイジ氏がこう述懐しています。
「私がどれほど仕事好きであるかを知っていただくためには、私が初めてビル・バーンバックに出会った時のことをお話しする必要がありそうです。
私は、ケリー・ネイソン社で働いていましたが、ちょうどやめようと思っていたところでした。
ビルはそのころグレイ(代理店)のクリエイティブ・ヘッドでした。

私は、ビルを知りませんでしたが、ある仕事のために人が求められており、彼がその面接官であるということは聞いていました。

私は、彼に会う前夜のことを忘れることができません。
私は、ちょっぴりでも妥協したものは、すべて私のポートフォリオ(作品スクラップ)からのけました。
私がやりたいと思っている種類の仕事をよく表していると思われる、私自身がつくったラフ・スケッチだけを残しました。
ビルに会うために部屋にはいって行きながら、私は突然、今自分が手にしているサンプルはとんでもないものではあるまいか…という恐怖に襲われてしまいました。
もし、彼がこの作品を気に入らなくて、ポイと投げ捨てでもしたら、私はもう行くところがどこにもないのだと感じていました。そうなったら、広告なんか信じられなくなってやめてしまうだろうと思っていました。
ビルは私の作品を見て、気に入ってくれ、私はその仕事を得たのです。

別れる前に、私たちは広告の将来について議論しました。彼が広告の将来をどう見ているのか、私はどう見ているのか…を。

彼の情熱と理解は、私に深い感銘を与えました。ついに私は、新しいアイデアを寛大に扱ってくれるだけでなく、それを要求する人に出会ったのです。

ビジュアルに考えることのできる想像力豊かなライターなのです。
一人の男との、長い間続いた、そしてこれからも、もっと長く続くと思われるすばらしい友情がこの時始まったのです」(注・1963年モントリオールのADCでの講演

ここでのバーンバック氏は、広告の将来について「情熱と理解」を持った変革者としての姿をくっきりと明らかにしています。
W・H・ウェイントロウブ代理店を去ったバーンバック氏は、グレイ社にクリエイティブ・ディレクターとして迎えられていたわけですが、両社に在職していた期間が1940年から1949年…すなわち第二次世界大戦から戦後の経済復興期であったことを思えば、2社における広告制作活動はそれほど活発であったとはいえないでしょう。