創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

02-08 アメリカにおけるペア・チーム

「アート・ディレクション」誌1965年12月号は、「アートディレクター=コピーライターのチームワークは、はたして効果をあげているだろうか?」と題するリンダ・ピバーのルポを載せています。

その大要は歴史的に見て、コピーライターは、クリエイティブ部門においてその主導権を握っていたが、今や、彼はアートディレクターと共に、それを分け持っている。
そしてこのチーム・ワーキングは、いかにして生まれ、その未来はどうなるものであるかを解明したものです。

こう書き出しています…「DDBがコンセプトを固める段階で、アートとコピーを合体化させることによって、クリエイティブの道をはっきりと示した時、マジソン街は、このアートディレクターとライターののがれることのできない一体化を、それほど幸福な結婚ではないかもしれない強制的結婚式として見ていた」
強制的結婚式(Shotgun Wedding)とは、未婚の男女が間違いをしでかしてしまった時、娘のほうの親が男性に強制する、あの結婚です。
ライターとアートディレクターとでは、どちらが男性で、どちらが娘に当たるのか、そんなことはどっちだってよいでしょう。
アートディレクターたちは、そうは思わなかったのです。
「ほとんどのアートディレクターは、彼らが長い間待っていたもの??への変化を得ることができた、ということを疑わなかった」
しかし、マジソン街の人たちの多くは、ライターが権力を振るって、攻撃的役割を果たしながら、彼の領分を守るのであろうと感じたのです。
憶測は当たりませんでした。
たとえば、デルハンティー・カーニット&ゲラー代理店のコピーライター、ゴールドマン氏はこういっています。
「私は、彼(アートディレクター)がいなくては仕事ができません。人々は、アートディレクターとライターの間に戦争があると思っています。それは誤りです。アートディレクターが自分の小さな殻に閉じこもっていたころは、一時、そういうこともありましたがね。
そのころ、アートディレクターはライターのいったすべてのことに従う一種の奴隷でした。
しかし、今や私たちは同じ地位になり、大いに啓発し合っています。

アートディレクターは、コピーライターと同じように、広告に対してなすべきことをたくさん持っています。
彼はデザイナーであるだけでなく、議論し、アイデアを持っているのです」

マーショーク代理店のセンデン氏は、アートディレクターと一緒に仕事をするようになってから、自分の仕事がよくなったことを認めたうえで、
「これ以外のやり方では、やりたくない」「広告とは、何事かをいわんがために始めるのものです。そのためには最良のシステムです。私たちは、口あたりのいいコトバとか美しい絵とかではなく、一つのアイデアで問題を解決するのです。クリエイティブ部門において、アートとコピーとの間にある唯一の差異は、技術上の仕上げということだけです。これは二の次の問題です。もっとも重要なのはコンセプトであって、これは分けることのできないものです」

ダニエル&チャールズ代理店の副社長であり準クリエイティブ・ディレクターであるダンスト氏は、
「多くの場合、アートディレクターは、ちょうど、ライターがビジュアルな面も一緒に考えているのかもしれないように、見出しのアイデアや、あるいは実際の見出しを伴った広告を作りえる人です」
といったあと、
「アートディレクターがしなければならない最も重要な仕事は、考えるということです。
ヘッドラインをつくることのできないアートディレクターは、半人前のアートディレクターです」
と定言しています。

もっとも、「アートディレクターたちの中には、いまだに古い型に閉じ込もっている人たちもいます。
この人たちは、広告の外面的な点だけ関係しているが、そんなことは少しも大切ではない」とつけ足してはいますが…。