創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(810)『アメリカのユダヤ人』を読む(36)

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生  活


ほかに誰をあてにできる? 



 ユダヤ教の道義心の基礎は家庭にあると言われる。
ユダヤ人の生活でこれほど讃辞を受け、臆面もなく感傷的な扱いを受けるもの
はない。
夕食時の集い、ママのチキン・ヌードル・スープ、涙と笑い、サム・レブンソン
症候群。
ユダヤ人には家庭生活をばら色の眼鏡越しにみようとする願望が強く、不愉快
な部分、喧嘩、超独占欲、退屈にまで及ぶ。
こうしたらとが、それがなければ家庭生活が今までより美しくなくなってしま
うほど好ましい点があるかのように小説や個人の回顧録でつぎつぎに語られる。


 反面、彼らと違う人間や作家は、家庭生活をまるで地上の地獄でもあるかの
ようにののしり酷評する。
自分にふりかかった‘すべての災難を家庭のせいにする。


 一見、全く違うこの反応も、源泉は同じところ――ユダヤアメリカ人の家
庭生活の多義性ユダヤにある。
シュテットルの環境に適合した姿勢の一部が東欧系移民によってアメリカの土
壌に移しかえられた。
この土壌がその姿勢に適したものでなかったら、いままでに死に絶え忘れ去ら
れてしまったことだろう。
だが、この土壌は適してもおり、不利でもあった。
そして彼らの姿勢はこの土
壌に根を下ろし成長しあだ花を咲かせるようになっていった。


 ユダヤ教の姿勢の中で最も主要なのは「家庭はすべての生活の神聖なる基盤
であり、日常生活だけでなく宗教生活の中心でもある」ことである。
したがってユダヤ教の宗教祭日のほとんどは会堂での儀式と並んで家庭での儀
式も重要視される。
安息日の本来の目的は家庭の団結を強化することであり、過越祭は完全に家庭
内行事で、会堂参会はない。


 ユダヤ人の家庭生活が重要視される真の理由はこれだといってよい。
これには無意識裏に感じてはいるが、公然とはロにされない秘密の意味もあり、
いろいろ面白い行動となって現われる。
ほんの一例だが、ユダヤアメリカ人のアメリカ人は家庭相談所の開設を先が
けた(子供のことで悩んでいるユダヤ人の親は外部の協力を求めることを恥と
はしないょ。
だが調査の結果、ユダヤ人はユダヤ人名義の相談所に助言を求めるということ
がわかった。(注1)
実際は管理者ヽカウンセラー、顧客のほとんどが異教徒であってもかまわない
が、「ユダヤ人の」が冠されていなければいけない。
そうでないと家庭の悩みをかかえたユダヤ人は訪れない。


 ユダヤ人の家庭生活の秘密の意味は、このことからいろいろわかる。
ユダヤアメリカ人は他の行動においては。、世界は2つに分かれており、
異教徒は(ジェローム・ワイドマソが小説のテーマにした)『敵のキャンプ』
に属するという昔ながらの考えを捨てられないにしても、軽視することは
きる。
だが家庭内のことに関する限り、この考えに執着する。
家庭の団結は愛、温情、信心、古い伝統尊重を現わすだけではない。
外部の世界、異教徒の世界から身を守る手段でもある。


「この世で自分の家族以外に誰を当てにできようか?」
子供のころ、この言葉はことあるごとに私の耳に吹きこまれた。
ほかの子供も同じであろう。
自分の家庭だけが攻撃に対する唯一の要塞であるという感情は、ユダヤ系アメ
リカ人の生活にいろいろな影響を及ぼしている。
ユダヤ人の結婚率は他のどのグループよりも高い。 (注2)
男は結婚しなければ完全な男ではなく、未婚の女には何の意味もない。
オールド・ミスのユダヤ人は珍しい(未亡人のほうが多い)。
母親は適齢期の娘が配偶者を見つけるまで息もつけない。
娘の場合ほどではないが、息子も同じである。
「お願いだから結婚してもようだい! どうしてお前はそんなに自分勝手な
の?」と私の母も言ったものである。


 もう一つの影響は――ちょっと見にはそうとは思えないが――ユダヤ人が他
アメリカ人よりも結婚期が遅いということである。(注2)
教育が重要視されていることも関係ある(「大学を終えてから結婚しなさい」)
が、結婚は真面目な仕事――楽しみやゲームでなく死活問題――だというユダ
ヤ人の考えも作用している。
家庭は要塞でもある。


 離婚率もカソリックを除いた他のアメリカ人よりも低い。(注3)
ユダヤ教には離婚を禁じた戒律はなく、許されている。
完全な性格不一致の場合には奨励されてさえいる。
だが正統派以外のユダヤ人の中にもどこかで離婚を嫌う感情があり、結婚の失敗
は悲劇だとする考えがある。
離婚率が低いユダヤ人が離婚法の改革と緩和運動の最前線に立つのを不思議がる人
は多いが、離婚はカソリック教徒のように道徳的な問題ではなく、現実的な問題、
戦術上の問題なのである。
離婚すると自分の立場が弱くなる。
家庭が破壊することは自分自身が無防備になることである。
だから離婚したユダヤ人の大多数はすぐに再婚する。
ユダヤ人の未亡人、若い未亡人とて同じである。
本能的にできるだけ早く要塞を再建しようとする。


 団結の意味は直接的な家族、夫婦、親子間だけでなくあらゆる分家にまでわたる。
家族関係には一種の義務まで課する。
ユダヤ人の父親は息子といっしょに自分の仕事をやろうとするだけではなく、
貧しい親戚があれば馬鹿でもない限り(なかには馬鹿であっても)いっしょに
仕事をやろうとする。


 これはすべてゼダカ(慈善)の教えに結びつく――慈善も家庭から始まる。
そしてゼダカの曖昧さは家族関係にも見られる。
私は家庭に義務を感じているが、といって彼らを好いていることにはならない。
事実、私は彼らの根性を憎んでいるかも知れない。
だからといって義務から解放されるわけでも連帯感を弱めるわけでもない。
家族間の争いはユダヤ人にはよく起こる。
だが永久的な決裂にいたることはない。


 それどころかほとんどのユダヤ人家庭は、互いの感情には関係なくうまくや
っていくことができる。
同じ町に住んでいる親戚同士はお互いに行き来し、特別な機会には親戚中が集
まって祝いあう。
結婚式や、バー・ミツバのときには近い親族をすべて招待する。
誰かを忘れでもすれば大変である。
葬式には伯父や叔母、そして故人が忌み嫌っていた従兄弟も出席する。
産婦は、二度とその子に関心を向けそうにもない人からも病院見舞いを受ける。


 祭日――宗教祭日に限らないIには必ず家庭でパーティが開かれる。
ユダヤアメリカ人の間では感謝祭が盛んである。
ツリーも花輪も贈り物もユダヤ教との関連性はないが、クリスマスも盛んである。
誕生日や記念日が無視されたりこっそり祝われることはまずない。
それが「重大な」誕生日とか「重大な」記念日であれば、饗宴の舞台は家庭内の
食卓からホテルの宴会場に移され、不愉快なシルビアおばさんとか嫌いな従兄の
マーピンとか……一一度と顔も見たくないと思っていた人たちがまたまた登場し
てくることとなる。
この20年間、ユダヤアメリカ人に母の日、父の日があまりにも普及している
ので、モーゼ五書に記されていると思いこんでいる人も多い。
実はユダヤ人PRマンがネクタイ産業のために父の日を発案したのだという。


 食べることがユダヤ人家庭気質を最もよく表わしている。
シュテットルから郊外まで、食物は愛と団結の伝統的象徴である。
家族は原則として何かを「する」ために集まるのではない。
映画を見に行くのでもなければ、音楽を聞きに行くのでもない。
会話のために集まるのでもない。
たしかに話――ゴシップ、論争、金持ち連中がしい者に向かってする最近の買
い物の話など――もはずむが、夕べの集いの真の目的は食べることである。
食事が終わってしまうと、男たちはテレピのまわりに群がり、女たちはカナス
(トランプ遊び)に興じ、若者たちは
さっさと消えてしまう。


 食べることが主で会話は二次的なものであるということは、ユダヤ人の家庭
パーティの真の意味を物語っている。
要するに儀式であって、心の集いとか気心の合った同士の集いではない。
ユダヤ人の女主人は「どうぞどうぞ、お食べください。話は後にして」と言う。
話し合うことがないのを本能的に悟っているからである。
趣味や興味が同じなどと信じる者はいない。
彼らは人間としてでなく、象徴として一同に会せられたのである。


 とは言っても、象徴的な機会とか、食べる儀式を過小評価してはいけない。
食べること以外ではユダヤ人らしさを喚起できなくなっている。
シャガール(かつて友人たちに「私からユダヤ教について意見を聞きたいのか?
一言で言えるさ――フーイー(興味がないというスラング!と言ってのけたことがある)は訪れる町々で掟にかなった料理店を捜す。
それも彼はポテト・ラトケスが大好きだからである。
ユダヤ教から改宗してカソリック教に満足しきって、いる中西部の病院の看護婦
も、ユダヤ人医師との夜勤の時には2人で空室でパストラミやピクルスを食べて
ユダヤ人であることを楽しむ」という。
異教徒と結婚してユダヤ人共同体との関係を絶った著名な精神病学者も、年に一
ユダヤ人の友人を呼び出して掟にかなった料理店で会食する。
「年1回の先祖帰りですな」と一笑に付してはいるが、これからも続けるだろう。


 この心理的カニズムは明らかである。
食べることが子供時代や食卓での饗宴や家庭生活に心の中で繋がっている。
かつて家庭生活は子供にユダヤ人らしさを植えつける大切な手段だったが、いま
も変わらない。


明日に、つづく。