創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(490)ロッサー・リーブス、広告の不変の原則(9)

東京コピーライターズクラブ訳/編『5人の広告作家』(誠文堂新光社 1966.3.25)のうち、ジョージ・グリビン氏が残っています。訳者は秦 順士さん(電通・コピーライター)ということは覚えていました。ただ、AWAの会のメンバーではなかった。それで、あることでご縁ができた電通・クリエイティブ開発センター/クリエイティブ能力開発部の伊藤部長にお願いし、すでに定年していらっしゃる秦さんに連絡をつけていただきました。昨夕、秦さんから電話があり、当ブログへの転載のお許しがいただけました。
あとは、グリビン氏の解説をなさった近藤 朔さんのご遺族にお願いするだけです。それで、ほとんど完全に日本語版『5人の広告作家』をネット上に復元しておけます。
読む、読まないはクリエイターと広告主の広告部員自身の資質・度量の問題。


ロッサー・リーブス氏のインタヴューは明日で終わります。9,10日に、TCCの元会長・上野壮夫さんの「リーブスとUSP」、つづいて秦さん訳のグリビン氏。




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 頭痛がしてきました(笑い)。が、まじめな話、私はここへ批評家としてきたのではありません。


リーブス いや、私は、おもしろいインタヴューにしようと思っているのです。つまらない一般論だけを、私の名でだしたくないのです。


 では、一般論ではない質問を一つしましょう。
広告業にはいられたとき、はじめはどうなさいましたか?


リーブス 1929年、ヴァージニア州リッチモンドの銀行にアドバタイジング・マネジャーとしてはいりました。


 それから?


リーブス ニューヨークにきて、ウォークウィック&セシルで、コピーライターになりました。
この会社は、いまは、ウォークウィック&レペラーといっています。
そして、そこでケンカをして、そのあと4年間、ラズロフ&リアンにいました。


 セシルで、すぐ仕事をはじめたのですか。それとも、広告の仕事にはいりこむのは、たいへんでしたか?


リーブス いや、私はヴァージニアの銀行のアカウントをセシルにあたえ、そのかわりに、ニューヨークの仕事を34ドル50セントで得たのです。


ここでインタヴューは終わった。帰りじたくをしているとき、リーブス氏は、新しし葉巻に火をつけた。会話は、コピーライターの名誉殿堂からきた人に引きっがれた。話は、つづけられていた


この商売には、ナンセンスなことがいっぱいあります。
最近、私は、ニューヨークの項曲協会の会長から、手紙をもらいました。
よい広告を選びだすパネルに出席して欲しいといってきました。
また、このはてしもないパネルをつづけるわけです。


私は、ノー、と返事しました。
いま、あまりにもパネルが多すぎます。
それらは、広告の仕事をよくするどころか、むしろ害していると私は思ったのです。


ときには広告賞を望んでいる若い優秀な人たちをやとうことかおりますが、彼らに広告賞の無意味なものであることをわからせるためには、1年もかかります。
そこで私は、広告協会の会長に、罪を見て見ぬふりをするのはいやだから、パネルに参加するのはごめんこうむりたいといったのです。


 あなたはそれが正しい方向への第一歩とお考えですか。
あなたはコピーライターの名誉殿堂へ指名されましたが……。


リーブス もちろん、指名されることは興味深いことです。
しかし、これらの人たちは、彼らが「金の鍵」をあたえるとしたら、よいキャンペーンをしたからではなくて、将来よいキャンペーンをするかもしれないということにたいして「金の鍵」が与えられるのだということがわかっているかどうか疑問です。


証明はまだ手に入っていないのです。
もしあなたが、名誉殿堂は真の名誉殿堂たるべきだと望むなら、あなたは過去の歴史にさかのぼるべきです。そして、ウィルバー・ルースラフ、ジョン・E・ケネディ、クロード・ホプキンス、スターリング・ゲッチェル、OBウィンターズ、シド・シュイツなど、故人ではあるが不朽のコピーライターをとりあげて、彼らが広告の様相を変えた歴史的な、偉大なキャンペーンにたいして、「金の鍵」をあたえるべきです。
証明は、すべて彼らのキャンペーンにあるのだから。
彼らの広告は商品を売ったし、そびえ立つ記念碑です。


 キャンペーンについてですが、あなたはご自分の考えで、ご自分の好みを満たしたことはないのですか。


リーブス では、ひとつ、とても大きな喜びをもたらしてくれたキャンペーンを紹介しましょう。
1945年、ケンタッキー州ルイスビルでのことです。私は社長の机の上からバイスロイの包みをとりあげていいました。


私「このタバコはだれがつくったのですか?」
社長「私たちだ」
私「広告費はだれがもっているのですか?」
社長「だれももっていない。眠っているよ」
私「私にキャンペーンを書かせてください。このタバコはフィルター付きです。そこで私は、このフィルターを武器にすることができます」
社長「なるほど。じつはクールの製作費が41,000ドル残っている。それを全部使いたまえ。そして君たちのすることを見ていよう」
そこで私は「ほかのブランドの2倍にあたる20,000の小さなフィルター・トラップ(通風口)」のキャンペーンを書いた。
そして、6,7年後にバイスロイは年間18,000,000ドルの広告費を使うようになりました。

バイスロイは、ほかのフィルター・チップにはできないなにを
あなたにあたえるのでしょうか?


1ヶのフィルターの中にある2万のフィルター・トラップ(通風口)が、あなたに最高の風味をあたえるのです。







リーブス氏が
クールの生産費の残り予算41,000ドルを使って
バイスロイの広告キャンペーンをはじめたのは1945年のことだが、
6、7年後には、
年間広告予算18,000,000ドルにもおよんだ。

さて、本題にもどりましょう。あなたがたは、それぞれに勝手な主観的判断をもって私のところへやってきて、表現技術至上主義の話をします。
しかし、大きな製薬会社が、もうかりもしないで86,400,000ドルものお金を使いますか。
この金額は、1本のテレビ・コマーシャルに投入されたものであり、制作費だけでも8,200,000ドルもかかっています。
しかし、このコマーシャルは、「風と共に去りぬ」以上の金を生みだしたのです。


 そのコマーシャルについてお話いただけないでしょうか。



明日に、つづく。