創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

ウィリアム・トウビン『あまりにも無秩序』


ウィリアム・トウビン
DDB 副社長兼アートディレクター


アートディレクション』誌(1959)


写真における<流行>というものを考えるとき、どんな<流行>といえども、本来の「新しさ」からは、ほど遠い潮流でであると感ぜずにはいられません。<流行>が存在するということ自体、オリジナルな考え方をテクニックにすりかえていることを意味しています。


アービング・ペン(写真家)がソフト・フォーカスな背景をある課題のために「カスタムメイド(特注品)」として使うことによって一つのムードを創りだしました…が、こんなに多数の写真家やアートディレクターが、ソフト・フォーカスな写真を撮ったり指定したりしなければならないというのは、どういうことなんでしよう?


しかも、それらの写真は、彼らのセールスやコミュニケーションの課題を解決したり助けたりするはずんがない場合でさえ、使われているのです。


メッセージがテクニックにふりまわされているとしかいえません。


たぶん、そうしたテクニックは潜在意識的に模倣されているのでしょう。あるいは熟考の上でそうなったのでしょう。でも、結果は表面的なコミュニケーションに終わり、「すげえ写真だったね。たけど何の広告だったっけ?」といわれる広告を制作したことになるのです。


なぜ、こんなにも多くのクリエイティブに人たちがこんなやり方で、<流行>を永続きさせる罪を負う必要があるのでしよう?


たぶん、その人たちはよっぽと強く、「通でありたい」「仲間でいたい」という欲求をもっているのでしよう。その人たちは、だれかが「古い」と気づいた瞬間に自分は葬り去られるのだという恐れや不安の中でせいかつしているのでしょう。そこで「汽車に乗り遅れるな」となってしまうのでしょう。


もちろん、アートディレクターや写真家のすべてが有罪だといっているのではありません。そういう手合いが多すぎるといっているのです。


「それでどこがいけないのかね?」と聞き返してくるアートディレクターもいます。「最も今日風てあることは、スマートだろう? 巨大な若者マーケットにはもってこいのやり方だろう?」と、真に最も今日風というのは、オリジナルということであって、模倣することではありません。


流行に乗るのは、区別と個性をさがすところを、同一性ですまそうということなので、いいことではありません。


基本的であるべき問題に、それとは関係のない要素を持ちこむことがよくあります。それが思考やコミュニケーションをあいまいなものにしてしまうのです。


結果として起きてくるギミック、トリック、アングル、ソフト・フォーカス、森のシーン、山頂に置かれた椅子、または5番街のソファ、海岸に陶器のセット…などは、広告の主題に無秩序なばかりか、それ自体に興味を引きつけることにより、主要メッセージをほかしてしまうという悪い状態をまねいてしまうのです。ギミックの強すぎる写真は、商品をおさえつけてしまうのです。


広告写真における写真の偉大さというものを、DDBは、写真が広告の目的を通訳するするところに置いています。テクニックや手ぎわに価値はないと信じています。


DDBでは、広告の課題から引きだされてできてくるものだという観点から写真の価値を判断しています、だからこそ、写真をストッパーや背景扱いにしていないといえるのです。写真をメッセージの心臓して扱っています。もし、写真が大きく扱われていたら、それは、広告の主題との関連においてそうなっているのです。


写真自体はどうということのない作品であっても、たとえば、去年受賞したELALイスラエル航空の広告、あの大西洋の写真はありネガだったという事実をお考えになってみてください。


アカウント・エグゼクティブが制作部門に、広告の課題を持ちこみます。その課題をアートディレクターとコピーライターが同時に聞きます。そして、2人のあいだでやりとりが始まります。


それが終わってみると、決定したアイデアは、いったい、だれがいちばん先に言い出したものやら、はっきり分かる人はいません。


アートディレクターがヘッドラインを考えたかもしれないし、コピーライターが絵の扱いを考えたかもしれないのです。どっちだろうと、そんなことは問題ではありません。アート=コピー・セッションの出発点は、この広告のメッセージを首尾よく伝えるたろに、なにを必要としているか? です。


フォーマットをどういう感じでいくか、などと、前もって考えたことなんか、ありません。ソフト・フォーカスいこうなどと限定してかかったこともないし、だいたい、その広告が写真を使うかどうかさえも分からないのですから。
このアート=コピー・セッションは、必要な手段だが、正式に開かれるものではありません。2人の合意のもとにおこなわれるものです。


ブレーン・ストーミングとは違います。グループ式討論とも似ていません。高度にクリエイティブな人間が2人いるだけ---それがアートディレクターとコピーライターで、2人が静かに働くだけなのです。


2人のこれまでの功績とは無関係に、豊富なアイデアがほとばしり出るというものでもありません。かかえている課題をめぐってアイデアのやりとりが進行するだけです。思いつきを検討したり、評価もしたり、つくり変えてみたり---。


終結果は、セールスあるいはサービスの課題を助ける広告のアイデアに到達することです。


そのアイデアが、アカウント・スーパパイザーの了解をとったあとで、コピーライターはコピーに仕上げ、アートディレクターはきちんとレイアウトし、写真について考えはじめるのです。


写真を選ぶにあたって、われわれはふつうアーティーな写真は避けるようにしています。それが広告の受け手のレベルから見て行過ぎだったり、関心を持たれないものだと感じるからです。


またわれわれは、いわゆる流行りを見習ってみたりもしません。もちろん、そのことを避けるためにわれわれの課題からそれることもしません。


課題の核心に触れないようなギミック(目くらまし、擬態)をこそ、避けるのです。ロバート・ゲイジがこう言っています---われわれが逆立ちの男を使うことがあったとしたら、それは小銭が絶対に落ちないポケットつきのズボンを売るときだけだろう、と。


DDBが写真を選ぶ基準は、アート=コピー・セッションで発展した広告のコンセプトが、いかに強調されているかという点においてです。



この点については、最近のELALイスラエル航空とオーバックス百貨店の広告を見ていただきたい。

それぞれのキャンペーンにおいて、写真、アート、レイアウト処理は一つ一つその広告すべき課題のための特別注文品です。


これだけ多様だと、キャンペーンというより、シリーズと呼んだほうが適当かもしれませんね。


>>オーバックスの広告「エンタイトルド」