創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(379)キャロル・アン・ファインさんとの和気藹藹のインタビュー(1)

クリエイティブな仕事に携わっている者にとって、環境は3つほどありましょう。仕事場の環境、国あるいは地域の環境、そして、個人的には最も影響の大きいのが家庭環境。働く女性にとって、とりわけ、3番目の環境は深刻でしょう。ファイン夫人は、そのあたりのことも、飾らないで話してくれました。このインタヴューは、彼女がDDBから当時話題だったWRG(ウェルズ・リッチ・グリーン)に、その実績を買われて引き抜かれていたときのものです。その移籍が結果的にさほど幸福なものではなかったことは、前書きのとおりです。そうそう、ぼくはコピーライターが備えるといい特技の一つに、「いい質問者たれ」というのがあるとおもっています。拙編著『みごとなコピーライター』『劇的なコピーライター』は、その、ささやかな実現でもあります。


キャロル・アン・ファイン夫人
    ウェルズ・リッチ・グリーン社 取締役副社長・コピースーパパイザー 


ウェルズ・リッチ・グリーン社をやめてしまって、「洗濯女グル一プ」という
人を喰った名のフリーランスのライター集団をつくったらしい、
女ばかり4人の集まりである。バイタリティにあふれたママさんライターだ。
いや、彼女ぐらい親バカぶりを発揮した米国女性に会ったのは初めて
だが、速記からは大幅に削られてしまった。ご当人もさすがに気がひけた
のかもしれない。


家庭と仕事を両立させるコツ


chuukyuuDDBで、あなたの個室を訪問した、私のこと覚えていらっしゃいますか。息子さんの絵を高く評価した最初の画商なのですが。彼はいま小学校3年生ですか?」
ファイン夫人 「はい、よく覚えています。それにあなたが息子の絵をご覧になったあの日のことも。息子は4年生になりました」


キャロル・アン・ファイン夫人と最初に会ったのは、彼女がDDBのコピーライターだった1966年の秋でした。
彼女は私に息子さんの写真を示し、彼女のオフィスの壁一面にピンナップしてある息子さんの絵を自慢しました。
私は、たまたま持ち合わせていた日本コインで、その中の1枚を買い求めたのです。たしか、100円玉だったように記憶しています。


chuukyuu 「ところで、あなたは母親でありコピーライターでもあるわけですが、この2つをどうやってうまく両立させていますか?」
ファイン夫人 「どうしたらうまくやっていけるのかなどということを深刻に考える時代はもう過ぎました。
つまり、私は子どもが生まれてからも、 9年間ずっと仕事をつづけているわけで、子どものほうでも私が仕事で出かけなければならないことをよく承知しているようです。ただ、夕方仕事から家に帰ったらできるだけ子どもといっしょにいるように私は努めています」
chuukyuu 「出勤、退社は何時ですか?」
ファイン夫人 「だいたい9時半から10時のあいだには会社に出ます。退社するのは6時かそれよりすこし後で、6時半か7時にはいつも家に帰っています。もちろんそれまでに子どもは帰っています」
chuukyuu 「両立させる秘訣は?」
ファイン夫人 「ある日小さな事件がもちあがりました。子どもが病気になったのです。家には子どもの面倒もみてくれるちゃんとしたお手伝いさんがいたのですが、私にはその日にかぎってクライアントとの大事な会議が予定されていて、会議に出席すべきか、家にいてやるかでさんざん迷いました。それから、コピーライターをつづけるべきか、それともやめてしまったはうがいいのかとも考えました。このまま仕事をつづければ当然お金がもっと入ってくるし、もっといい仕事ができるようになるのですから。いずれにしてもとる道は一つ、どちらをとるか決めなければなりませんでした。
そこで、主人と相談することにしたのですが、彼はとてもいいことを言ってくれました。幸せなことに彼は『女房には仕事をさせないほうがいい』という一般の男性の考え方に共鳴していないらしく、私が働くことを快く賛成してくれていました。
『君にはその両方に大きな費任があるのだ。君は真剣に仕事をしているのか、それともいい加減な気特でやっているのか。ジョン(私の息子の名前ですが)をいつも第一とする必要はないのではなかろうか』という主人の言葉で、私はこの2つをよく考えてみました。
子どもの熱もそれほど高くはなく、たいしたこともなさそうだったので、お手伝いさんによく注意してほしいと言い残して会議に出席しました。何かあったらすぐ家に帰ればいいと考えましたから。子どもと仕事を対等と考えたのは、これが初めてだったと思います。
それ以来時が経っにつれて、より以上に自分のしたいことに専心できるようになりました。子どもの世話が十分行き届いているかどうかいつも気にはしていましたが、それにもまして仕事への意欲は強くなっていきました。
私はこの質問に1,2,3---と理論的に答えているわけではありませんし、そうしろと言われてもできません。
ともかく最初の頃、まだ子どもが小さかった頃は、私もかなり罪の意識をおぼえました。子どもが3歳ぐらいの頃だったと思いますが、私が夕方家に帰るなり私の腕をしっかりつかんで、いっしょにゲームをしようと言ってきかないことがありました。私はとても疲れていましたし、その日の仕事のことが頭から離れなかったので、ほんとうはめんどうくさかったのですが、いっしょに遊んでやらなくてはならないと思いました。事実ここ1年ほど子どもの相手になってやったことなどなかったのです。でも遊んでやらなくてはという気持がある反面、とにかく疲れていたので腹立たしくも思いました。私がいちばん望んのは、坐ってスコッチでも飲みながらくつろぐこと、ただそれだけでした。
そこで、私は私の気持を正直に息子に言おうと思いました。彼は賢い子どもでしたからわかってくれると思ったのです。私はこう言って聞かせました。『いっしょにいてあげたいし、いっしょに遊んであげたいのだけれど、ママは嘘をついてまでそうしたくはないの。もしそうしたら最後にはとても腹が立っことになるでしょうから』と。
彼がこれを全面的に受け入れてくれたかどうかわかりませんが、きっとどこの母親でもこんな場合にはこうしたのではないかと思います。彼はこれまで私を独り占めにすることはできませんでした。私はこのことをよく知っていますし彼も同じです。でも、とにかく私たちはそれでうまくやってきました。
もし、万が一にも私が職を持っ母親についての本を書くとしたら、こういった問題を取り扱っている本が実際何冊かあるのを私は知っていますが、もしそうなったら私はぜひ、真剣に仕事に取組んでいる母親について書いてみたいと思います。というのは、実際母親になっても外に出て働いている人はまだまだ少ないと思います。こうした人が現われてからまだ日が浅く、恐らくまだ15年ぐらいしか経っていないのではないでしょうか。その中でも私はとくに例外です。というのは、私の仕事はまったく男性のそれと違いがないからです。もちろん、感情の面、行動の面あるいは自己を表現するところなどは多少なりとも違いがあるでしょうけれど、やっている仕事の内容自体は男性と変わらないのです」
(つづく)