創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(319)ボルボの広告(13)

明日からは、[第4章 「世界最高の安全車」と呼ばれるために]を抜粋します。これこそが、ボルボの真髄中の真髄と思われますから---。そう、3,4回でしょう。


>>『ボルボ〜スウェーデンの雪と悪路が生んだ名車』目次
第1章 ガブリエルソンの30年間
2人の男が出合ってから---(つづき)

  • ワンマン体制の確立

1927年7月14日の夜

ボルボ」という名をこの世で最初に冠された車は、O(オー)4という型式番号で呼ばれている5人乗りオープンカーであった。


(O-4 第1号車)


その第1号車は、あとに1000台がつづくのを信じて疑わないような悠揚たる姿で、見すぼらしい工場の流れ作業台を離れた。 1927年(昭和2)7月14日の(フランスでは俗にパリ祭と呼ばれている)夜であった。
正装したラルソンがハンドルを握っていた。
彼は、開け放たれた工場の入口から、エンジンの音を響かせて工場前の広場へ走り出た。その姿を、作業員たちが拍手を送るのも忘れ、走るのが不思議といった表情でぽかんと見送っていた。


(産室を出る第1号車)


スウェーデンの自動車工業の第1景のあっけないほど簡単な開幕であった。
翌日の午前中に、記念写真をとるためにラルソンは、もう一度同じことを繰り返して演じてみせなければならなかった。
28馬力1944CCのサイドバルブ4気筒エンジンを搭載した3段変速のこの車は、工員たちに「ヤコブ」というユーモラスな愛称をつけられ、1929年までに205台つくられた。価格は4,800クローナ(当時の邦皆換算約2,748円)であった。
このオープン型と同仕様のP4サルーン型は同じく1929年までに764台つくられ5,800クローナで売られた。
別に、P4型のシャーシが27台生産された。
結局、1927年につくられたのは、オープン型、サルーン型を合わぜて297台で、予定の1,000台には達しなかったが、それで140万クローナの売上げを記録した。

  • デザイン・ポリシー

ヤコブ」は、さしたる特徴のない平凡な車のように見えた。目につくことといえば、ラジエター・グリルに、大胆な斜線と今日でも「ボルボのマーク」となっている、丸に右上方へ伸びる矢印がつけられていることぐらいであった。
ところが実は、この車の外観デザインは、ガブリニルソンの発案で、ヘルメール・マスオーレが手がけた。マスオーレは、デザイナーというよりもアーチスト(画家)であった。しかし、1920年から1930年にかけてのスウェーデンで、「デザイン」という言葉が口にされるのはめったにないことであったというから、マスオーレがデザイナーではなくて有名な芸術家であったとしても、彼を起用したガブリエルソンの勇気をいささかも弱めはしない。
ボルボ社の社史は、
「(デザインに対する)ガブリエルソンの考えはたいへんに進歩的で、最初のボルボ車(ヤコブ)のデザインを高名な芸術家であったマスオーレに頼むときには、デザインという言葉のもつ意味を十分に理解していた。この芸術家は、たいへん立派な仕事をし、ヤコブの品質とボルボ第1号車頑強さに対して大きく力を貸した。これがボルボの目標でもあったし、40年後(1967)の今日でもそうなのである」
と記述している。
マスオーレに関してのボルボ側の公式記録はこれだけである。私は、現在(1976)のスタイリング部門の主任デザイナーであるヤーン・ウイルスガールドに問い合わせた。
「私がマスオーレ氏に会ったったのは、1951年(昭和26)でした。実物大の模型車を見るために私たちのスタジ才を訪問されたときです。この時、マスオーレ氏はすでに70歳ぐらいで、私には奇妙な人物に見えました。もし説明できるなら、私たちが会ったときの愉快な話をすべきなのですが---。
マスオーレ氏はインダストリアルデザイナーではありません。画家です。私は、彼はボルボの美的な面での助言者であったと思います。
氏は、ボルボフェンダーやウィンドウ・ラインやなんかを改良しました。しかし、氏が完全な車をデザインしたとは、私には思えません。当時の自動車づくりには、技術者の仕事のほうがより重視されていましたから---。
その証拠に、私がボルボ社にはいった1950年(昭和25)には、まだデザイン部という名の部門はありませんでした。私は、私よりちょっと前に入社した人といっしょに、ボディー技術者として働いたのです」
ウイルスガールド部長は1930年生まれで、工業デザインに関する専門教育を受けている。50歳も齢が違い、分野も違うマスオーレ氏を認めなかったとしても当然のことである。
むしろ私は、ガブリエルソンのある種の頑固さを感じとった。マスオーレ氏がいかに有能な画家であり、ボルボ車第1号ヤコブ誕生の功績の一部になっていたとしても、その後20数年間も助言者の位置においておいたということは、いささか異常であろう。
ウイルスガールド部長は、その辺の意味も含めて、「私は『スタイリング』という言葉は好きではありません。『デザイン』というほうが、私の気持ちにぴったりきます」と言っている。

ところで、1927年前後の世界の自動車工業はどうであったか。
まず、スウェーデン市場を席捲していた米国では、1920年代の初めに88社あった自動車会社が、え年後の1926年には半減して44社になるとともに、フォード社、GM社、クライスラー社の大手3社が低価格市場を完全に握っていた。フォード社は1926年にT型車の生産をやめてA型車へ切り換えたが、GM社に首位を譲らざるをえなかった。GM社の充実した車種政策とスタイリング、販売組織の拡充が勝因というのが、いまでは定説になっている。
1929年における米国の乗用車生産台数は、約446万台に達した。

英国は、部品工業の立ちおくれから、米国のような大規模な量産体制が進まず、同じ1929年には乗用車だけで18万2000台が生産されたにすぎなかった。しかし、このころになると、企業数も淘汰され、1922年には88社あったのが31社に減っていたし、ルーカス社のような有力な専業部品メーカーも発達してきていた。市場を握っていたのはモーリス社とオースチン社であった。

ドイツは、ガソリン・エンジンの発明者ゴットリーブ・ダイムラーを生んだが、自動車工業として認められたのは、第1次大戦後であった。多数の中小メーカーが競い合い、1922年には67社であったが、1925年のドイツ・フォード社の設立、27年のフィアット社のNSUのハイブロンエ場の買収、1929年にはGM社のアダム・オペル社の吸収などの外国資本の進出と、1926年のダイムラー社とベンツ社の合併、29年のBMW社のイメバッハ社の吸収などの再編成によって、1933年(昭和8)には16社が残っているにすぎなかった。
1929年におけるドイツの乗用車生産台数は、11万6700台であった。

フランスは、自動車工業をいちばん早く誕させた国であるが、本格的な発展段階にはいったのは1920年代である。第一次大戦後、自動車の軍用価値が認められ、政府の援助を得て、1929年には戦前最高の21万1000台の乗用車を生産している。この時期に業界をリードしていたのは、低価格の大衆軍を生産していたシトロエン社であった。1927年には約7万4000台を記録し、2位のルノー社2万4000台も引きはなしていた。


イタリアは、1899年創立のフィアット社、1906年のランチァ社、08年のビアンキ社、一九〇六年のランチア社、○八年のOM社、10年のアルファ社など、今日も活躍している会社がつぎつぎと生まれたが、工業に必要な諸要素の欠除が原因で量産化かおくれ、1920年代のピークの年、1928年ですら総生産台数は5万5100台にすぎなかった。

日本では、乗用車オートモ号(1200円)の白揚社が解散したのが、ちょうどボルボ1号が誕生した1927年で、その後、ほとんどの需要を日本フォード社、日本GM社の組立車と輸入完成車でまかなっているにすぎなかった。

日本は別としても、米国、ヨーロッパにおけるこのような自動車工業の情況の中で生産を開始したボルボ社の位置が、いかに困難なものであったかは、容易に想像できる。
(注・この項は東洋経済新報社刊、奥村宏、星川順一、松井和夫共著『自動車工業』から多くの指示をいただいた)

  • 2年目には早くも輸出

1928年(昭和3)、つまり、ボルボ車が誕生して2年目に、フィンランドに総計10台のボルボが輸出された。この年は当初の4000台生産予定に対して、実際には約900台しか生産できなかった年であった。そのうちの10台である。もちろんボルボにとっては初めての輸出であったが、ガブリエルソンが、フィンランドに子会社をつくって売り込んだのである。
この事実は、スウェーデンの企業家たちを驚かせた。彼らにしてみれば、スウェーデン車が輸出できるなんて、考えてみたこともないことであった。彼らは、いち早くボルボ社に注目した。
そして、部品や付属品の供給会社の多くは、ボルボ社の株主になることを望んだ。ガブリエルソンは、彼らの好意を謝するとともに、その申し出のすべてを丁重に断わった。
ガブリエルソンの考えは、こうであった。
「彼らが株主になると、部品供給会社はお互いに---そして外国の競合会社とも---競い合う可能性がなくなってしまい、ボルボにいつも関係があるとは限らない業者たちの手先にされてしまう。私は、この申し出を受けなくて良かったと、今でも思っている」
彼のこの考えの根拠は、商科大学時代にヘシケシェール教授のもとで学んだ国家経済の原理であった。それは「協同消費は大いに奨励されるべきだが、協同生産は完全に絶望的である」とする理論である。
しかし、ガブリエルソンは簡単に断わったわけではない。世界的な不況の波がスウェーデンにも押し寄せていた時期で、不況期だから部品供給会社は、ちっぽけなボルボのために安くつくっているが、好況がもどってきたら、ボルボから得られるわずかばかりの利潤には興味を持たなくなるだろう---などと、もっともらしく言いふらす人たちがいたからである。
結局は、自動車工業の将来に対するガブリエルソンの強い信念が、彼を決断させた。1923年から24年間、ゼネラル・モーターズ社の最高経営者の任にあったアルフレッド・スローンも、その著『GMとともに』(田中融二、狩野貞子、石川博友訳・ダイヤモンド社)の中で「確信というものは事業における重要な要素」で「ときにはその有無が、成功と挫折の岐路となることさえある」と述懐している。

chuukyuu注】「第1章 ガブリエルソンの30年間」は、あと数10ページありますが、今日にはあまり関係が濃くないので省略します。


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The Volvo 164

贅沢と言っても、うわべではなく、
中味の濃さがかんじん。


贅沢にも二通りあります。車をゴテゴテ飾りたてる類い。そして性能を向上させる類い。
今のような時勢では、どちらを選ぶか真剣に考えてみた方が利口です。
ボルボの新型車164を考えてください。
ボルボは気分よく運転できた方がすぐれたドライバーになれると考えます。
バケット・シートは腰の当たる部分を柔らかくも硬くもできます。ドライバー・シートは緩められますoそしてエアコンディショニングが標準装備。
ボルボは、運転中に力を使うのは運転のさまたげになると考えます。
だから164にはパワー・ステアリング、パワー・フロント・ウインドゥ、前輪・後輪にパワー・ディスク・ブレーキ、オートマチック・ギアがついています。
しかし部位によっては贅をこらしていることは認めざるを得ません。
たとえば、164のシートは本物の皮張りです。
他の自動車メーカーがオペラ・ウインドゥに酔いしれているこの時代に、ボルボは賛沢を知的に解釈しているのです。


ボルボ


掲載『アトランチック』1975年7月号




The Volvo 164

TRUE LUXURY IS MORE CAR
TO THE FOOT.
NOT MORE FEET TO THE CAR.


There are two kinds of luxury. The kind that makes a car fancy. And the kind that makes it better.
In times like these、you'd be smart to give serious thought to which one you choose. Ccnsider the new Volvo 164.
Volvo knows that a comfortable driver is a better driver. Our bucket seats let you firm or soften the area at the small of vour back. The driver's seat is heated.
And air conditionini; is standard.
Volvo thinks it's dislractinig to work when you drive. So the 164 comes equipped with power steering, power front windows、power disc brakes front and rear. And automiatic transmission.
We do, however admit to an occasional elegant indulgence. For example, the 164 furnishes you with genuine leather to sit on.
At a time when other car makers are singing the praises of operara windows、 we believe Volvo offers a much more intelligent view of luxunry. 


Volvo 


The Atlantic, July, 1975