創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(136)『コピーライターの歴史』(了)

この章を「アップしようか? すまいか?」 ずいぶん、悩みました。なにせ、44年も前に書いたものなので---。でも、まあ、「44年前は、そういうことだった」との記録のために、アップにきめました。書き加えるとしたら、インターネット時代のウェブ広告の新しい訴求法でしょうか。今日のテキストのタイピングも転法輪(広告プロデューサー)さん。感謝。


『コピーライターの歴史』(14)
今日と明日『5人の広告作家』(誠文堂新光社 1966.3.25)より


今日における米国を代表するコピーライターは誰か・・・といえば、それは本書に登場する五人・・・それに、パパート・ケーニグ・ロイス(PKL)社のジュリアン・ケーニグを加えた、およそ十人ばかりの人たちでしょう。
彼らの偉大さについては、いまさら加えるべきなにものもありませんが、戦後まもなく米国の広告界に訪れたデザイン主義というより視覚伝達重視時代がようやく反省期に入ったいま、多くのコピーライターたちが、アイデア発想の主役として活躍していることは特筆する必要がありましょう。
しかしそれも、過ぎ去った黄金時代・・・たとえばホプキンスの時代・・・のように、ライター自身の手で広告をつくったようにではなく、視覚重視と溶けあった形で活躍しているわけです。
その好例として、DDBのアート=コピー会談の成功が挙げられます。
アート=コピー会談というのは、広告のアイデアを構成するにあたって、チームであるコピーライターとアートディレクターが、互いにコー・コピーライター、コー・アートディレクターとなって論議することです。

そこでは、コピーライターがグラフィック・アイデアを出してもよく、アートディレクターがヘッドラインを書いてもいいという約束が前提になっています。

この形が、新鮮で独創的な広告を生むやり方としてもっとも適したものであることは、現在、米国においてすら、多くの代理店が、DDBのやり方をこぞって研究しはじめたことでも証明されましょう。

そして、DDBのコピーライターたちを見ていていえることは、彼らには、過去につくられたあらゆるコピー原則を無視してもいいという特権が与えられているかのように思えることです。
まことに奇妙な感想ですが、原則は破られるためにあるかのようです。
というのも、こんにちほど広告があふれている時代はかつてなかったのです。
それらの中で、自分の広告を目立たせ、大衆の目を止め、その心に訴えかけるためには、原則どおりにやっていてはダメなのでしょう。

つまり、彼らは、みずからの手で、新しい原則を打ち立てようとしているのです。
本書に登場している五人の広告作家たちのやり方さえ無視して・・・。


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