創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(135)『コピーライターの歴史』(13)

テレビの出現で大衆の日常娯楽は、映画からブラウン管へ移りました。ハリウッドで失業した映像アーチストたちがTV-CMづくりになだれこんできました。米国でのことです。たちまち、言い出されたのが、「コンセプト(伝えたい基本の考え方)」「ノングラフィック(美しいだけの映像ではダメ。売り込みのアイデアが肝心)」---ジョージ・ロイスは、勇敢にも、机とライトと黒バック紙1枚だけでCMをつくり、アイデアが第一---と断言しました(氏のアレレストのCMをご覧ください)。広告写真家はスチールカメラをムービー・キャメラに持ち変えました。ハワード・ジフ氏のVWの葬式のTV-CFを再クリックしてみてください)。今日のテキストのタイピングも転法輪(広告プロデューサー)さん。感謝。


『コピーライターの歴史』(13)
 テレビの出現『5人の広告作家』(誠文堂新光社 1966.3.25)より


ラジオにつづく、商業テレビという、今(20)世紀最大の、そして最強の広告媒体は、終戦とともに誕生しました。
ここでまた、印刷媒体を中心に成長してきたコピーライターは、言語能力とともに、ドラマタイゼーション能力、そして、アートディレクター以外のアーチスト・・・すなわち、カメラマン、作曲家、プロデューサーなどとの交渉を要求されるようになって、いよいよ全能の神たるべく義務づけられたのです。
前に引用したドルジンス夫人の記述を再度引用すれば、
「ところが、さっそく苦情が出た。印刷広告のライターは、テレビのタイミングがゼロだというもので、これは20秒ないしはそれ以下で1秒12コマのCMをつくるのにいちいち指定をつける煩雑さにてこずったフィルム会社から出たものだった。
そこで代理店は、ラフなアイデアだけを作ることにし、スクリプトを書いたりCMを撮影するのは、フィルム会社の仕事ということになった。
そうこうするうちに、各代理店は独自のテレビ部門をもつようになった。
なかには演劇学校から人材を募集したり、シナリオ・ライター(大部分は作品の上演されていない)やステーションから新人を求めて『テレビコピー部』の充実を目的として出発したものもあるが、大多数はこのような部門を設置することによって、テレビ広告と印刷広告の間に変わったアプローチが生まれることを心配し、昔ながらの印刷、ラジオ広告ライターにテレビのCMを書かせた。
そのいいわけとして彼らは、クライアントの製品よりCMの制作本数や技術に深い関心をもつ局側の人間とか、強制された劇作家に頼るよりは、印刷広告ライターにテレビの心得を教えこむ方が簡単だ、という大義名分を立てた」
たしかに、これは必然的な結果であったといえましょう。商品を売るための広告コピーというものについては、過去数十年間、数十ページを費やして概観してきたごとく、何万、何十万という才能豊かな人たちの知能が結晶しているのです。
それを、少々ドラマの心得があるとか、文才があるとかいうだけの人を急ぎ速成教育しても、それで商品を売るアイデアがでるものではないのです。広告という世界は、アマチュアリズムが許されない世界なのです。


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