創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(133)『コピーライターの歴史』(11)

広告コピーのドラマタイゼーションは、ラジオCM---しかも、太平洋戦争中の国策CMから始まった。今日も、テキストのインプットをしてくださった転法輪(広告プロデューサー)さんに感謝。


『コピーライターの歴史』(11)
ラジオの出現と戦争

1922年秋、ニューヨークにWEAF局をもっていたアメリカ電信電話会社が、広告メッセージを流すために同局を利用させることになり、ラジオ広告時代が開かれました。
『プリンターズ・インク』誌に「コピーライター現在・過去・未来」を書いたジュディス・ドルジンス夫人によると、
「まもなく他の局もこれに右へならえしたが、どこでも最初は、大衆は商業放送にはあまり耐えられないという想定のもとに出発しており、広告主の大部分もラジオを親善媒体とみなして、製品名を名乗るだけにし、メッセージも番組提供は××社でした、といった簡単なアナウンスだけにとどめていた。
しかし、1920年代の終わりごろになると、聴取者は当初考えられていたよりも忍耐してくれるということがはっきりしてきた。そしてまもなく放送コピー、つまりコマーシャルを書くことが新しい広告の仕事になった。
放送コピーというからには、スポンサー名を表示するだけではなく、いままでとは違った角度から電波をつうじて消費者の需要と受容を喚起するメッセージを考えねばならなくなった」
というようなわけで、広告代理店にはラジオCM部が設置されはじめたのです。
そして、コピーライターたちが、ラジオ・コマーシャルのライティングに動員されました。
これは、彼らにとっては、まったく新しい経験ではありましたが、同時にまた、喜ばしいチャンスでもありました。
というのは、印刷の場合、かならずといっていいほど、なにほどかのアート的要素が必要であり、アーチストの協力を必要とします。
ところが、ラジオ広告の場合にはそのような必要はなく、あたかも広告コピー創世期のように、コピーの力のみで販売力が発揮できるわけですから、コピーライターがオールマイティになったような錯覚にとらわれるのです
(現実にはそうではありません。言葉と音響だけによる販売ですから、そのことばはより強力で、より印象的でなければならないはずです)。
とにかく、ラジオという媒体の出現によって、コピーライターは言葉それ自体のもつ力そのものの認識に直面したわけです。
それは、ようやく台頭しつつあったアートの力と相まって、彼らにコピーとはなにかを考えさすチャンスでした。
しかし、真珠湾事件とともに、コピーライターの役目は変わってきました。コピーでいかに大量に売るかが目標ではなく、いかに説明するかの時代に入ったのです。
多くの企業は、物資不足、サービス不足を大衆に説明しなければならなくなったのです。たとえば、ラッキー・ストライクはパッケージから緑色を省略したとき、「ラッキー・ストライクの緑は戦場へ行きました」といいわけしました。
ニュー・ヘイブン鉄道は「上段4の青年」と題する広告で、「いまは真夜中の3時42分。走っている汽車の中です。人びとは安らかな寝息をたてて眠っています。下段には2人ずつ。上段には1人ずつ。これは普通の旅行ではありません。これが彼らにとって、戦争が終わるまでの、最後の国内旅行になるかもしれないのです。明日は彼らはたぶん、船の上で荒波にもまれていることでしょう・・・」
と語りかけて、兵員輸送に車両をとられているから、不用不急の旅行を見あわせてほしい、また、座席がとれなくても辛抱してくれと訴えているのです。
戦争中、多くのコピーライターは、このような語り口を余儀なくされました。
そしてそれは、ハード・セルのコピーからは学び得なかった、コピーのドラマタイゼーションの技法を学ぶことになるのです。


>>『コピーライターの歴史』目次


chuukyuu注】 「ラッキー・ストライクの緑は戦場へ行きました」も「上段4の青年」も、印刷広告にもなり"The 100 Greatest Advertisements" に収録されているはず(記憶さだかならず)。