創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(216)DDBのアートディレクター---シド・マイヤーズ Sidney Myers

たった、ひとことの言葉が、価値基準を一変したり、ひとびとの行動に駆り立てたり、戦争の原因になったりすることすらある。「アングラフィック」という言葉も、まさにそのような魔力を秘めた言葉の一つであった---といえよう。この言葉が、1962年のニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ展に関して発言されて以来、それはニューヨークで働くアートディレクターたちの目標になつたようだ。本特集号ではこの言葉がうまれるにあたって力を貸した人びとの仕事を、彼ら自身による自選作品を中心に紹介した。もちろん、言葉というものは、その時代の反映であり、力のある言葉ほどその時代の力を結集していることはいうまでもない。




これが、1967年2月10日に『アイデア』誌別冊として,ぼくが編集・刊行した『ニューヨークのアートディレクターたち』と題した作品集に付した編集趣旨文である。ボブ・ゲイジ氏をはじめDDBでは8人、そのほかの代理店や雑誌・テレビ局の26人に招聘状を送って作品を取り寄せた。その中から2人をピックアップする。シド・マイヤーズ氏と、バート・スタインハウザー氏である。 


略歴】1932年ブルックリンに生まれ、音楽美術高校で学んだ。デザイン界でかずかずの仕事をした後、1958年DDBに入社。 ジョンソンの大統領選キャンベーン、 ラインゴールドールの仕事を担当した。NYADCから金賞2回、そのほかテレビ、イラストレーション、グラフィック・アートなどの団体から賞を受けた。作品はグラフィック・アート展で世界中に紹介されたこともあり、ポスターの一つ現代広告を代表する作品として国会図書館に展示された。
私の創造哲学
広告における説得は、事実というものを芸術の力を用いていかにユニークに、確実に、そして記憶に残る方法で伝えるかにかかっています。言葉を変えていうと、あなたが表現したいとおもうポイントを早く見つけ. それをしっかりとすえることです。



バリー・ゴールドウォーターの、驚くべき問題解決法


問題がある? これを一発やるんだね。それで保証された、指示どおり投下するんだ。それだけでいい。ボン! それで問題解決。
すべてのものはものを黒か白かで片づけてしまう人にとって、原爆は魔力をもった妙案にみえるに違いありません。
ロシアとの問題もこの妙案を使えば、一夜のうちに解決できるでしょう。5倍ものロシア人をみな殺しなするだけの原爆を私たちは保有しています。
簡単で、早くて、ラクです。
たぶん、バリー・ゴールドウォーターにとって、原子爆弾の魅力はここなのでしょう。小ぜりあいの戦争にも投下しようという熱弁が吐けるのでしょう。ロシアを核絶滅すると言う脅迫的熱弁を。
しかし、これには落とし穴があります。しかも、ゴールドウォーター氏は、このことに全然気にかけていないようです。
ロシアにも原爆はあるのです。
10億のアメリカ人が殺されてしまうほどの---殺しあいです。ケネディ大統領とジョンソン大統領がこれまでに、核戦争に頼らなくても、自分たちの利益を守れることを示してきました。
11月3日は原子爆弾はジョンソン大統領が管理していますから安全です。もちろん、あなたも。
11月3日には、ジョンソン大統領に投票しましょう。
家にいるなんてとんでもない危険を冒さないでください。


以下は、1966年10月1日に刊行したブレーン別冊『繁栄を確約する広告代理店DDB』の第2章として発表したものです。会社経営とコピーライティングという実務の中での、しかも30歳代という幼なさでの文章ですから、いまから見ると赤面する部分もありますが、大統領選にまつわる裏ばなしなどの取材もしているので、シド・マイヤーズ氏たちの仕事への讃辞として再録しました。
【chuukyuuのおすすめ】コピー担当のスタンレイ・リー氏とのインタヴューもお読みください。(1) (2) (3)


大統領選挙とDDB


ケネディの着眼


ソニーが、DDBのつくったフォルクスワーゲンの広告キャンペーンに魅せられていたころ、ワシントンで、ひとりの男が、矢つぎ早に掲載され、しかもその一つ一つが読者の共感を呼ぶVWの広告に注目していました。
この男は、大げさにいえば、世界中でもっとも強い権力と影響力とをもったひとりでした。ジョン・F・ ネディ大統領です。
ケネディが、ハイアニスポート(ニューイングランド地方) のアービング通りに面した彼の自宅の一室で、大統領に立候補することを決心した1959年の春には、VWの広告キャンペーンはまだ始まっていませんでしたし、1960年11月8日が校祭日であった大統領選にDDBを起用するまでには、機は熟していませんした。
しかし、ホワイト・ハウス入りしてからの彼は、VWの広告に、大衆を説得し、納得させ、信頼させ、広告に書かれている考え方のシンパをふやしていくだけの魔力がひそんでいることをすばやく理解しました。そして、この大衆説得の職業的天才たちを、自己の陣営にひきこむことを考えたのです。
さしあたっては、きたるべき1964年秋の共和党との対決に、このVWの広告チーム---DDB民主党キャンペーンを担当させるべきであると決めていたといいます。
幸いにも、DDBは、首脳陣をはじめ、多くの従業員が民主党支持者でした。
こうして、DDBは、またしても、クライアントのほうから自分のところへ足を運ばせたわけです。しかも、それは自動車とかテレビとか石けんとかといった、金さえ払えば買うことのできるものではなく、政治という、買うことのできない商品でした。もちろん、政治キャンペーンは、DDBにとっても最初の経験でした。


ジョンソン、DDBを指名


ケネディDDBが結びついたところで、あのダラスでの暗殺事件が起きました。
リンドン・ジョンソンが大統領になりました。公的生活に従事している人の中で、ジョンソンはもっとも友人の少ない人のひとりといわれています。この点でもジョンソンはケネディと対照的でした。しかし、ジョンソンの数少ない友人の中のひとり、ビル・マイヤーズは、ケネディの道志にしたがって、DDB民主党キャンペーンをまかすようにすすめ、1964年3月19日に、正式に、しかも秘密裡に、ジョンソンはDDBを指名したのです。マイヤーズをキャンペーン推進の最高責任者すえて---。
彼自身が放送局の所有者でもあるジョンソンは、ホワイト・ハウスの彼の寝室に、3台のテレビ受像機を置いており、同時に3大ネットワーク---CBSNBC、ABC---を視ることができ、リモート・スイッチで音量が自由に調節できるようにしてあるといわれるほど、テレビの効果を重視している人です。彼がマイヤーズをとおしてDDBに対し、300万ドル(非公式には500万ドルともいわれている)のキャンぺーン予算の大部分をテレビにつぎこむよう指示したたろうと想像するのは、ぼくだけではないでしょう。


この民主党キャンペーンで、DDB側のアート・スーパバイザーとして統括した、1932年生まれのマイヤーズ(Sid Myers)氏に会ったとき、彼は人なつっこい口調で「自分にとっては大きな経験であった。なんせ、ワシントンとニューヨークの間を数えきれないほど往復し、ホワイト・ハウスに入りびたったり、大統領に会ったり、最後の2週間はホワイト・ハウスに泊まりこんだんですからね。おかげで休暇をフイにして女房にうらまれちゃった」と笑ったあと、 「民主党側の広告代理店選択が(共和党側よりも2ヵ月も早かったことが、その後の私たちを有利にした」と話してくれたことから判断しても、ケネディが、広告代理店選定などという、時間と労力をむだにしがちであるばかりか、かえって無益な結果を生むことにもなる大げさなビジネス習慣を無視して、自分の目で選んだ一つの代理店---それも、それ以外ではいけなかった一つ---を早くから内定していたことは賢明だったといえましょう。
これに反して、ゴールドウォーターのテレビ放送が始まったのは9月でした。
「大統領への道・1964年」 の著者ホワイトによりますと、「理論上は、民主党のそれよりもはるかにすぐれているように思われた」キャンペーンであったそうです。
共和党側が起用したのは、世界最大の広告代理店グルーブであるインターバブリックでした。インターバブリックの媒体専門家たちは、17億もの情報を電子計罪横にかけ、全米を200のテレビ・マーケットとし、最小の費用で最大の視聴者にメッセージを伝達する方法を、1964年8月20日以降から計算したとしいわれています。


「しかし」とホワイトはつづけます、 「媒体専門家たちは、言うべきことは何であるか、メyセージはどうあるべきかを与えらなかった。というのは、彼らはゴールドウォーターにじかに会うことも、その親友に近づくこともできなかったからである」
この記述を読みながら、失笑せざるを得ませんでした。現在、日本の広告界をのし歩いているエセ科学主義の正体をそこにみたような気がしたからです。意味ありげな穴があけられた数万枚のカード、気が遠くなるような数のトランジスタ、1秒間に幾十万のデータ処理うんぬんといった自慢ばなしめいたものの陰にあるものが、乾ききったもの、人の心をうたないもの、空虚なメッセージであることが、広告の世界では多いのです。
いや、けっして電子計算機の無用を唱えているのではありません。巨大なマーケットの真の姿を分析するためには、電子計算機の助けは必要です。しかし、バーンバック社長がいつも言っているように「よい広告とは、すぐれた芸術的手腕を示したものです。科学と違って芸術は,、読者を動かす力をもった言葉や絵をみつけることができる」ものだし、単なる調査は「全世界にわたって行なうこともできます。それでもひどい広告をつくることから解放されることはできません。事実はよい広告の始まりでもなければ、目的でもありません」


そうです。広告に必要なのは、人びとの目をとめ、心を動かすことのできる、みずみずしいフィーリングのはずです。
ホワイトは、 「DDBグループの楽天的な態度は、土くさいと言ってもよかった。このことは、人びとの心をとらえようと努力することを意味し、伝達すべきメッセージを知っていたということである」と書いています。
すなわち、「ゴールドウォーターを攻撃せよ、そして彼をタガタさせよ。最初から彼を守勢に回らせるようにしむけよ」ということでした。


1回きりのTVコマーシャル


DDBのクリエイティビティが、具体的にはどのように発揮されたかを、ご紹介しましょう。
それは、テレビ・コマーシャルに集約できます。そのコマーシャルは、民主党キャンペーンの第1番めの、ただ1回だけ流された1分間フィルムです。画面には、野原でデイジーの花びらを、ひとつ、ふたつ、みっつ---数えながらむしっている亜麻色の髪をした少女がだんだんクローズ・アップされていきます。「いつつ、ななつ---むっつ、やっつ---」 その声はたどたどしく、とどまりがちです。彼女が「10」までかぞえ終わると、カメラは彼女の瞳孔まで近より、それにかぶせて「10.9.8. 」と秒読みが始まり、「ゼロ!」と同時に画面いっぱいに水爆のキノコ雲がひろがり、ジョンソン大統領の「原爆の世にあっては、お互いに愛しあうか、死ぬかの方法しかありません」の声がはいり、アナウンサーがつづいて「11月3目にはジョンソン大紋舘に投票しましょう。家にいるなんて、とんでもない危険を冒さないでください」と呼びかけるだけのコマーシャルです。


1964年9月7日夜、このフィルムがNBC系の電波に乗ると、ゴールドウォーター側から、「自分たちが小さな子どもを殺そうとしているようにとられる」と放送中止の申し入れが行なわれました。フィルムはとくに、ゴールドウォーターとも共和党とも言っていませんが、共和党側を刺放しすぎたことははっきりしています。


このフィルムは、1回の放送だけで2度と放送されませんでした。けれども、それだけによけいに人びとの目にふれる結果になってしまったのは皮肉です。放送中止がニュース映画で報じられたり、テレビのニュースになったり、発行部数の大きな週刊誌の記事になったりしたからです。国会図書館にも納められましたし、英国からも希望してきました。エンサイクロピーディア・ブリタニカの「1965年版」の「1964の事件」の項目にも、このフィルムの中から3カットが抜きとられて収載されました。つまり、たった1回きりの放送を見そびれた人たちが、見ようと思えばいつでも見られるような結果になったのです。このコマーシャルを、ホワイトは 「政治的テレビ・キャンペーンの傑作として歴史に記される価値がある」と特記しています。
ジョンソン側の第2弾は、10日後に現われました。無邪気にアイスクリーム・コーンをなめているかわいい少女の画面に、おだやかな声が、ストロンチウム90を説明し、ゴールドウォーターは瞭水爆実験禁止協定に反対していると指摘したものでした。おもしろいことに、これも一度だけ放送されると、中止されました。


つぎのフィルムは、社会保障に関するもので、両手が社会保険のカードを引き裂くものでした。つまり、DDBのクリエイティブ・チームは徹底してゴールドウォーターのパーソナリティをやっつけたのです。効果は急速に地方にまで浸透していきました。ゴールドウォーターは遊説の先々で、原爆問題と社会保障について説明しなければならなかったといいます。地方の共和党のボスたちがそれを要求したからです。ゴールドウォーター側は、つねに守勢に立たされたわけです。相手の攻撃に応えるだけがせいいっぱいで、相手を攻撃する時間がなくなってしまったのです。DDBによって植えつけられた自分のイメージをぶちこわそうとしてもがくのみであったのです。
結果は、

・ジョンソン ----------- 43,126,218 (61.0%)
・ゴールドウォーター ---- 27,174,898票 (38.5%)


となって終わりました。
電子計算機は、創造的な人間の頭脳に破れ去ったのです。
ホワイトは言います「ニューヨークの広告人(DDB)たちは、ゴールドウォーターのみならず、古き民主党政治家たちさえ転倒させるような、生き生きした想像力の創造物を生ぜしめた」と。


そうはいっても、DDBが電子計算機を使わなかったという証拠はどこにもありません。プリタニ「1965年版」には、あることを暗示した文章が載っています。「DDBの第2の戦略は、キャンペーンの始めから共和党を守勢に回らせることであった。主要な争点に関して、ゴールドウォーターがなした議論の的になるような公式発言をあばくことによって、ゴールドウォーター側のバランスをくずすことであった。DDBは<キャンペーンの争点に関して、まるで彼らがある商業製品を売ろうと企てたかのように、大衆に向かって調査を行なった」
それは、投票者にもっとも強い影響を与えると思われる争点に関しての政治上の暴露がどこにあるかを知るためのマーケティング分析でした。そして選び出したものが、「核兵器の責任問題、好景気の経済の持続、十分な社会保障計画を保持すること、そして、賢明で経験豊かな人物と、無謀で矛盾した言辞を吐く男との比較」であったと解説しています。


とにかく、この政治キャンペーンに関する戦いは終わってしまっています。政治キャンペーンが、石けんや自動車を売るのと同じ精神で操作されていいか、問題のあるところです。一部の広告人の中には、「政治家を売り込むために広告を使うことは俗悪の極み」 と断言している人もいます。この人は、政党や候補者が専門的広告業務の知識と手続きを必要としているのなら、「専門家の自発的な志願者たちをつのって代理店の垣根をこえた特別のチームを組ませ」てはどうかと提案しています。ぼくは、それこそ、知識の切り売りだと思いす。それぞれの広告代理店は、個有の個性をもつべきだし、ものの見方、説得の仕方もそれに従った個性的なものになるべきなのです。
この人のいうような連合混成軍で、うまくいくハズはないと思います。しかし。政党キャンペーンに広告代理店が参力していいか---ときかれると、簡単に「しかり」と答えるわけにはいきません要するに、その広告代理店のものの見方、態度が問題だとおもいます。


DDBの文化的意義


DDBについては、どうでしょう
1965年11月1日号のアド・エイジ誌に、スティーブ・ベイカー氏が、 「DDBの文化的意義」と題するエッセイを発表しているので、紹介して答に代えましょう。
このエッセイは、「DDBタッチ」というエッセイの後をうけたもので、ほとんどの人が「DDB的タッチ」の存在を認めたが、筆者あての手紙の中の1通だけが、 「DDBがクエイテイブのリーダーであるという前提には異論はないが、その意義を特定の広告代理店に置いたのは不合理だ」といっていたというのです。それは中西部の某大学教授からのものらしく、教授は「こういった性質の議論をするなら、もっと重要な、演劇、美術、音楽といったものの文化に対する影響に限定するのが妥当で、広告代理店に結びつけてうんぬんするなど、もってのほか」と主張していたそうです。
イカーは答えます。


「この手紙を読んで、いったい、米国の学者連中は、この国で広告がつくり出している諸影響というものがよく分かっているのかどうか、考えさせられてしまう」として、「DDBの影響は、そのモチーフが、たとえ営利的商業的なものであっても、作家や芸術家たちの影響ぐらい文化的意義があるともいえる」として、ミッキー・スピレーンやケルーアック、ヘミングウェイの名やポール・クリーもアンディ・ウォホールやジョージ・ベロウスの名をあげます。


そして、フォルクスワーゲンのキャンペーンを、芸術的新くふうという点からのみても、ポップ・アートと同じぐらいの価値があり、ラインゴ-ルドのコマーシャルは、オフ・ブロードウェーの劇と同等の、そして、さりげなく控え目に言いながら説得力の強いエイビスのコピ-は、オグデン・ナッシュの詩と同じ価値があるといえるかもしれいといい切ります。 「マス・メディアのおかげで, こういったキャンペーンは、少数の読者層を相手にした単行本や絵画よりも、はるかに多くの(ときにはずっと関心をもつ)オーデエソスに達することができる」


ということは、アレギザンダ- ・カルダーのような有名な芸術家たちの作品よりも、VWのキャンペーンのほうが、ずっとたくさんの人びとの注目を集めているという言い方にもなるのです。「実際、DDBが、今日、社会的な一つの大きな力になっていることは事実であるといえる。それは、何百万という人ぴとを説得し、行動させてきた。しかも、米国の経済に与えた影響も数兆ドルといった単位では、測り得ないぐらいのものだ」「米国の歴史に、これほどの『好みをつくる人(tast maker)』は出現したことはなかった」といった要旨のものです。
つまり、DDBは、石けんや自動車や政党を広告しながら、単に広告するというだけではなく、そこに、新しい見方、新しい好みを、広告を通じてつくり上げていく広告代理店なのです。
民主党のキャンペーンに即していえば、原爆反対のアピールを、民主党の金を使って米国大衆に訴えているといえまょう。
しかし、民主党やジョンソンが、今後とも、本気で原爆反対を考えているかというと、これは歴史の証明を待つよりほかないでしょう。

ニューヨークの地下鉄駅の壁面ポスター
(落書きの多い媒体なのを逆手にとって)




オーバックスのメンズショップでお買い物を

ELALイスラエル航空




お座席についておりますベルトをお締めください ---べルトをゆるめておくつろぎください --雑誌ですか? ---枕は? ---コートをお調べになりました? ---乗り心地はいかがですか? ---いいえ、奥きま、ELALの意味は「大空へ」でございます ---ただボタンをおせば---ノブをひっぱって --コーヒーですか? ---紅茶? ---それともミルクになさいますか? ---ガムは? ---果物は? ---いいえ、奥さま ---ええ---いいえ! マティーニは2杯まででございます ---コーヒーになさいますか? ---私がやってさしあげます ---23歳でございます ---それは禁じられております ---翼はいつもこういう状態になりますから ---いいえ、奥さま ---はい、奥さま ------コーヒーですか? ---ご気分はなおりまして? ---もう一つお枕ですね? ---おかわいらいしこと ---夕食です ---いいえ ---お願いですから! --- コーヒーのお代わり? ---ベルトをお締めください ---ムシャロム ---シャロム ---テルアビブからずっと歩いてきたみたいな気持ちがするわ そうよ、実際歩いてきたのですもの。

ELALイスラエル航空


長いあいだ観光事業に従事してまいりました。


初めは、アップアップでした。
私たちは泳ぎました。
私たちが飛び始めた15年ほど前まで。
1948年に中古のDC-4を1機と戦前の空の勇士を2人かかえましたが疑問だらけでした。
いまでは、新型ボーイング707と720-Bジェットの完全艦隊です。
おおぜいのパイロットトがそろっています。(ノアというパイロットもいます)。今では疑問は残されておりません。
世界で最良ノン ストップ飛行をします。ニューヨーク=テルアビブ間です。
それよりも短いノンストッブ飛行(ニューヨーク=−ロンドン、パリ、ローマ間)は、私たちにとってはお茶の子さいさいです。
とくにおもしろくて仕方がないのは、ELALのジェットがアテネチューリヒイスタンブールに着陸していても、だれも気づいていないということなんです。
まったく当たり前のことなんですが。
ご想像どおり、世界中いたるところへまいりますよ。
ラッセル、ウィーン、ミュンヘンアムステルダム、フランクフルトなど。
ご想像なさらないようなところへも飛んでいます。テヘラン、ナイロビ、ニコチア、ヨハネスブルクなど。
1時間600マイル近いスピードで、6〜7時間内に私たちがお連れできない所はほとんどありません。
40昼夜かかってお連れできる所を考えてみてください。