創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(206) DDBのテレビ・ラジオ制作部


繁栄を確約する広告代理店---DDB』(ブレーン・ブックス 誠文堂新光社 1966.10.1)に収録した小文です。


ドン・トレバー氏と最初に会ったのは、たしか、1968年の秋だったように思います。コピー・スーパバイザーで副社長のロール・パーカー夫人に紹介されました。それからは、DDBへ行くたびに、ぼく1人だけの試写をやってもらえるようになりました。といっても、その月にできたTVコマーシャルをつないで社員用にスクリーニングしているものを、臨時に映写するだけでしたが。でも、作品数が多いので、20分から30分間、トレバー氏はつきあってくれたのですが。夜もワシントン広場の近くのレストーランで食事をしていろんな話をきかせてくれたり---。




プロダクション デイレクターの肩書きをもつドン・トレバー(Don Trevor)副社長は、次のように説明してくれました。
DDBに、テレビ制作部が設置されたのは、私が、バーンバック社長に招かれてDDBに入社した1957年である。この年、電波関係の扱い高は200万ドルで、全社の抜い高からみれば10%にすぎなかった。 それが、 9年後のことしは、54.5%を占めるまでになった」
ここでぼくが「1964年は36%でしたね」というと、彼はびっくりしたような表情で、「来年はいくらになるか、君にきいたほうがよさそうだ」と言ってから、大笑いしました。 その後でぼくが、 「今後、より繁栄しようと思えば、テレビの比重をもっと大きくする必要があるね」 と言うと、彼は大きくうなずきました。



(指示を出すドン・トレバー氏)


このトレバー氏という人は、 DDBに入るまで、さるテレビ局に7年、 コマーシャル・フイルム会社に1年いた人で、バーンバック社長に面接したとき、「広告の経験はまっくない」と申し立てたそうですが、バーンバック氏は、「自分もテレビのことは知らないから」と答えたということです。
さて、テレビ制作部の役割ですが、1964年11月16日現存の人員表によりますと、 トレバー部長のほかには、


次長 1人
管理責任者 1人
プロデューサー 7人
準プロデューサー 3人
ビジネス・マネジャー 1人
準ビジネス・マネジャー  1人
見積係 2人
トラフィック 7人
タレント支払い係 1人
キャスティング係 2人


その他、 フイルム整理係、試写係、秘書群となっています。そしてトレバー氏は、プロデューサーの仕事は2つあるとし、


1.ビジネスマンとして、フィルム会社との契約業務
2.ディレクターとしての仕事


をあげました。


ここで注意を要するのは、DDBでは、印刷媒体のアート=コピー・チームが、テレビ・コマーシャルのアイデアを出しているということです。アイデアが出たところで、プロデューサーがはいって、3人が中心になって働くそのやり方については、このブログにアップしたマイヤーズ氏の文章をお読みになればおわかりになりましょう。
トレバー氏の解説によると、ディレクターがよければ、それだけ、制作上の面で、コピー=アート・チームによい影響を与えることができるので、 テレビ馴作部としては、経験の蓄積に意を注いでいるということです。「ディレクターを外部から雇う場合、よいフィルムを作るかも知れないが、新しいものを生み出すためには、よい方法とはいえない。自社で育てるほうがよい。だからDDBでは、なんでも自社内でやるようにしている。音楽家もかかえて、歌もつくらせている。 自分たちでやることが多くなれば、 それだけ私たちの力が増す」と強調しました。