(46)DDBのやり方を語る(3)「DDBのクライアント」
前DDBアカウント担当重役 ネッド・ドイル Mr.Ned Doyle
(注:1969年に引退)
これは、『DDBニュース』1969年7月号に載ったインタヴューを、ご本人の許可を得て、拙編『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11.10)に翻訳・転載したものです。
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DDBのクライアント
問い「DDBのやり方を受け入れてくれるクライアントを捜すことは、最初は大変なことでしたか?」
ドイル「もちろんですよ。でも、オーバックス(婦人衣料主力百貨店)の春・秋のキャンペーンが出てからは、われわれに会いたいという人から2,3の呼びだしを受けました。ああいった広告に共感を覚えてわれわれのところへ来た人たちです。それらがDDBの初期のクライアントでした」
(注:オーバックスの広告はこちらのページをご覧ください。
ぼくが唸ったポスター
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問い「ここを去るクライアントは、何を思っているのでしょね。DDBによい広告を求めてやってきて、確かによい広告をつくってもらっているはずなのに、いったいどうして去ってしまうのでしょうか?」
ドイル「憶測的なことしかいえませんが、とにかくお答えしましょう。これは関係者の間の化学の問題です。たとえ仕事がよい場合だって起こり得ますからね」
問い「そうですね。去って行くのは数少なく、ほとんどが残っているのですから。
DDBがこんなに大きくなると予想したことがありましたか?」
ドイル「そう、扱い高がやっと800万ドルぐらいの規模のころ、デッド・ファクター(ロス支社長)が、どのぐらいまで大きくなると思うかと聞いたことがありました。『デッド。2,000万ドルを越えられるほどになるまで、たくさんのクライアントがわれわれのような広告会社を理解してくれそうもないだろうね。
今では、この話を、『2,000ドルを越えそうもないと言ったのはデッドだ』ということにしていますがね」
(注:DDB創業から10年間のクライアント・リスト
1949年 | |
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・オーバックス百貨店 | ニューヨーク7店ほか |
・ヘンリー・リヴィ | リヴィ・パン |
1950年 | |
・ドライファス証券 | 投資信託 |
・ウエア・ライト手袋 | |
・バートン菓子店 | |
1951年 | |
・ビーナスペン社 | 筆記具 |
・メインハード社 | 商事 |
1952年 | |
・ケムストランド社 | アクリラン繊維 |
1953年 | |
・同上社 | ナイロン |
・バクストン社 | 札入れ、皮革製品 |
1954年 | |
・ポラロイド社 | カメラ |
1957年 | |
・ELALイスラエル航空 | |
1958年 | |
・メルビル靴社 | トム・マカン靴 |
・グレート・ウエスタン貯蓄貸付組合 | |
・ホリー砂糖社 | |
・ザ・レイン社 | 家具 |
1959年 | |
・VW社 | 乗用車、ワゴンなど |
・ローリー食品社 | |
・フランス政府観光局 | |
・クレアロール整髪社 | |
・ウエッジウッド磁器社 |
(この項、未完。つづく)