創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-15 アウトサイダーになるつもりだった

ロビンソン夫人は、あるインタビューに答えて、

バーンバックさんから、新しい代理店を創立することを打ち明けられ、『どう、いっしょにくるかい?』っていわれた時、私はワクワクしちゃったのです。
だって、私には、失う経歴もなかったし、まだ初心者でしたし、あの人が私を求めているんだから、私にはあの人に応える何かがあるんだろうし、それだったらステキだなって考えたんです」

彼女のこの発言からも察しがつくように、もしかすると、すべてを失うかもしれない…と考えていたフシもあります。

バーンバック氏も、
「私たちが私たちの代理店を開くといううわさが広まると、たくさんのグレイ社の人たちが一緒にきたがりましたが」
といったあとで、けっきょく、海のものとも山のものともわからない代理店なので、ゲイジ氏とロビンソン夫人の二人だけにした、と告白しています。
また、最初12人で開店したDDBの従業員数が約30人にふくれあがった時に、バーンバック氏が、
「これ以上、人間がふえては、自信がない。これぐらいの規模がちょうどいい」
といったと、ある古参社員が私にバラしてくれました。

つまり、DDBの創業者たちは、広告業界のパイオニアになるのではなく、アウトサイダーになるつもりだったのだと思います。

アウトサイダーとは、外側にいる者のことですが、単に外側にいるのではなく、インサイダー、すなわち内側にいる者がつくり、従っている秩序を否定する側の立場に立つ、という意味をつけてそう呼びたいのです。
確か、C・ウィルソンもその著書(福田恆存・中村保男共訳、紀伊国屋書店刊)の中で、そのように規定していたと思います。

アウトサイダーであろうとすれば、既成の広告観ややり方を否定してかかるわけですから、当然、はね返りや掣肘が待ちかまえていることは予想しなければなりません。

そこで、バーンバック氏は、DDBの従業員の数がふえることを警戒したのではないでしょうか?

じじつ、DDBの創業当時から「DDBの広告哲学の妥当性に関する論議は、マジソン街のあちこちで活発に行われた」と、(スチーブン)ベイカーというアメリカの広告人が書いているぐらいですから、反対論や中傷も多かったのでしょう。

しかし、ベイカー氏によれば、あれこれの議論や中傷にもかかわらず、「DDBは、そ知らぬ顔をして成長して行った」のです。