創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-12 製品に魔術があれば…

バーンバック氏は、1966年に来日して、日経ホールで講演しました。
「きょうは正しい広告について話をするわけですが、まず第一にいいたいことは、私は毎日、広告の仕事に従事しているけれども、広告には魔術がないということです。魔術は何にあるかというと、それは製品にあるわけです」(注:「日経広告手帖」1966年6月号)
「広告で大切なことは説得する力があることではなく、説得する何物かを持っていない製品は広告できないということです。だから、製品に魔術があれば、広告には魔術がなくとも広告はできます」(同)
「いくら偉大な広告を行っても、悪い商品であれば、広告が偉大であればあるほど、かえって逆にその商品を市場から失墜させてしまうような加速度をかけることになるのです」(同)
これは、商品の内容と一致した広告をつくるためには、まず、よい商品を選ぶことが大切だと主張しているようにも取れますが、じつは、そうではないと私は思います。
バーンバック氏は、商品の中の魔術を見つけよ、と主張しているにすぎないのではないでしょうか。
そして、商品の中の魔力を見つけて、それを生き生きと表現するために、自分自身の広告代理店をつくりたかったのでしょう。


ロビンソン夫人との問答が、一つの示唆を与えてくれます。

chuukyuu「(十数人もいたグレイ社のコピーライターの中から)どうして、あなただけがDDBに誘われたのですか?」

ロビンソン「うまく答えられないのですけれど…。とにかく、バーンバックさんは、グレイ社当時の私の仕事を大変に買っていらっしゃったらしいのです。
個人的にも、広告に対する考え方にも、ウマの合う二人だったのです」

chuukyuu「DDBの創業当時はいかがでしたか?小さな代理店だったと思いますが…」

ロビンソン「確かに小さな代理店でした。電話交換手を含めても12人しかいなかったのですから。

当時のクリエイティブ部門を構成したのは、ヘッドがバーンバックさん、ヘッド・アートディレクターが(ボブ)ゲイジさん、コピー・チーフの私の三人だけでした。
私にはアシスタントはいませんでしたが、ゲイジさんは仕事の性質上、数人のアシスタントを持っていました。

とっても活気があったんですよ。もちろん、偉大なパイオニア精神を意識していたからではありません。あるいは、今考えるとそうだったのかもしれませんけど…。

むしろ、授業をさぼるイタズラッ子のように飛び出そうという気持ちが強かったんです。

自由を満喫していたのです。パイオニア精神を意識していたからではない、と先ほどいったのは、この言葉は少し気取った言い方だからです。少なくとも、私たちは気取ってはいませんでしたから…。

とにかく、私たちは、足かせを解かれた人のように、牢屋を飛び出た人のように、自由を喜び合ったのです。自由に、自分の思うとおりに仕事ができるという…」