創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-06 広告界にはいったのは、ある日突然に・・・ 

しかし、彼がユダヤ系の家庭に育ったということは、もう一つのことを意味します。

将来の目標が、医者、弁護士、教師、芸術家、科学者あるいはジャーナリストか広告業界に限定され、その分野で地位を築くために努力が続けられ、両親もそれを期待するということです。
学歴がない場合には、これらの職業のほかに商人が加わります。

1946年4月号の「タン・モデルヌ」誌にサルトルが発表した『アメリカ紹介』(生田耕作訳)をお読みになった方も多いでしょうが、その中に、
「『犬とユダヤ人は入るべからず』という文字を正面に掲げた大西洋岸の一流ホテルがある。ユダヤ人が海水浴する資格のないコネチカットの湖がある」
という箇所があったことを覚えておいででしょうか?

もちろん、ここ数年来、米国のユダヤ系の人の遇し方には、変化が生じています。
流通面における彼らの力を正当に評価し、利用しようという方向に変わってきているようです。

しかし(ノーマン)メイラーの『裸者と死者』(新潮文庫)でのユダヤ系兵士ゴールドスタインの扱いは、当時の一般的アメリカ人のユダヤ系の人間に対する態度を暗示しています。
(もっとも「犬とユダヤ人は入るべからず」、に似た文句で、戦前の日本では「犬と広告屋は入るべからず」というはり紙を出している会社が多かったのは、興味あることですし、何かを暗示しているように思えてなりません)。
バーンバック氏が、芸術家の道をとらないで広告業界を選んだのは、単なる偶然であったというよりも、実生活上の必要からであったろうし、同時に、彼自身の中の芸術家として生きるには不足するものがあることを、彼自身が自覚していたのだと、私は、思います。
彼には、適度の順応性がありすぎたのです。

問「それではお話を前にもどして……私のお聞きしたかったことは、何があなたをこの仕事にはいるように決心させたかということなのですが…」

バーンバック「ええと、それはちょっとむずかしい問題ですね。ものごとにはすべてはっきりした決心のもとに行われているわけではないと私は、思うのですが? 私がこの仕事にはいろうと思ったのは、ある日突然に、なのです。どうしてそうなったのか私にもわかりません。私は書くことに興味を持っていました。
また、美術にも関心がありました。
そして書くこととアートを広告の中で行う機会がやってきた時、私はその機会を利用しただけなのです。広告代理店にはいるその直前まで、私はニューヨークの世界博で働いていたのです」

問「1939年のですか?」

バーンバック「そう、1939年のです。私はリテラリィ部門の監督をしていました。
私たちはこれを調査部と呼んでいたんですが、私たちはエンサイクロピーディア・ブリタニカのために世界博の歴史について書きました。私たちはいろいろな雑誌に多くの論文を書き、私は世界博の絵も幾つか描きました。
そしてその世界博が終わった後、だれかが、ある広告代理店の人が私をさがしていると伝えました。その人は私に、降りてその人に会うようにいいました。
そこで私は、広告界にはいる機会に挑戦することとなったのです」

問「その人はだれだったのですか?」

バーンバック「それがウィリアム・H・ウェイントロウブ( William Weintraub )でした。私はそこでたくさんの広告界のベテランたちに伍して戦い、ウェイントロウブ氏に頼まれて書いた幾つかのものが認められて、仕事を得ることができたのです。
今日の私の地位は、この時決まったといってもよいと思います。

私は、自分のコピー部門の中に型にはまった人間がいるのはがまんできませんでした。私は、そういう人を今までやっていた一切のことから引き離しました。そうすることによって、新鮮な見方、外側からの見方ができるようになると考えたからです。

そして、私たちが広告について何か新しいことを知ったら、あとで彼らにそれを教えてやりました」(同)

ウェイントロウブ代理店は現存していない会社です。この代理店でのバーンバック氏のやり方を調べたいと思い、だれに質問すればいいかをヒギンズ記者に問いただしたところ、返ってきたのは「バーンバック氏は、ウェイントロウブ社について話したくなそうです」という返事でした。