創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

01-22 クライアントをゴルフ場で拾わない

さて、全く新しいタイプの広告代理店をつくろうとしたバーンバック氏は、クライアントと自分たちの間に明確な線を引きます。
そのことを、次の言葉が示しています。
「クライアントが私たちに基本ルールを与えることを私たちは決して許しません。
それはクライアントのために悪いと私たちは思っています。
それはこういうことです。
私たちはけっして製品についてはクライアントとおなじには知ることができないと考えています。
なにしろ、クライアントは、製品と寝食をともにしているのです。
彼はそれをつくったのです。
生活の大部分をそれとともに過ごしているのです。
私たちはどうしたって、彼とおなじようにそれについて知ることはできないのです。
それとおなじことで、彼は広告については私たちとおなじように知ることはできないのだと私たちは確信しています。

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02-22 「私たちの」アイデア

もう一度、パーカー夫人の講演にもどりましょう。
いよいよ、ペア・チームの会談が始まります。
創造の神秘的な時間の訪れが聞かれるかもしれません。
「さて、アートディレクターとコピーライターは、ちょうど2個のスポンジのように資料を十分吸収したうえで、ひざをつき合わせてクリエイティブ活動に専念します。これは、普通、アートディレクターの部屋で行います。
アートディレクターがコピーライターと話し合いながら、ケント紙の上にラフスケッチを描きつけることができるからです」
「作業は、2人の会話だけで、それ以外は何もありません。
商品について話し合うだけです。
広告のもって行き方を研究します。
コピーライターのほうからビジュアル面のアイデアを出すこともありますし、またその逆もあります。
心に浮かぶアイデアを、取捨しないで、ありのまま持ち出します。

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03-22 「親愛なるロビンソン夫人様」

次に紹介する入社の例は、あるいは特殊すぎるかもしれません。
けれども、DDBの人材採用の一面を教えてくれます。
幹部コピーライターのパーカー夫人は、DDB創業直後、すなわちDDBがまだ小さかったころに運よく入社できた人ですが、秘書からコピーライターになり、しばらくして「人々の口に、よくその名がのぼっていた」DDBのコピー・チーフであったロビンソン夫人あてに手紙を書いたのです。
「どんな手紙だったのですか?」という私の問に、
「ただ、なぜDDBで働きたいかを書いたの。そうしたら、その手紙が広告文としても十分に通用するものだと、ロビンソン夫人とバーンバックさんが判断してくださって、採用されました。
見てもらうほどのサンプルも持っていなかったし…。
そうね。もし、今まででいちばん成功した見出しは?って聞かれたら、この手紙の『親愛なるロビンソン夫人様』って答えることになるわね」
と笑いながら話してくれました。

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