創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(605)DDB30周年にバーンバックさんが語る(まとめ編)

書庫の隅から30年前---1979年9月25日と10月10日号の『日米コピーサービス』が出てきた。月2回刊のこの手づくり同然だった啓蒙雑誌を知っている人は広告クリエイターでも、もう、ほんの数人だろう。20年ほど前に廃刊になった。当時、年間購読料が6万2千円だったから個人はおろか、企業でもほとんど講読許可がでなかった。内容は、同誌編集者が「これは---」と選んだ40点ほどの広告に訳文と簡単な解説を付したもの。
上掲の2冊の号は、ぼくが提案して編集された。DDBの創立30周年記念の社内報の紹介だった。もちろん、DDBの了解はとりつけた。40数年前、これまでなかった創造哲学を構築し、広告界に新しい道を開拓したDDBという広告代理店を日本に知らしめた一人だが、1970年代に入るときわめてしんどいその作業をやめた。理由は上掲号の冒頭文「DDB紹介[終末宣言]」に書いた(インタヴューの次に紹介



       ★     ★     ★


人を切れるのは、事実に生命を吹き込むことのできる芸術的才能です 
             ビル・バーンバック WILLIAM(BILL) BERNBACH

             on "DDB NEWS" june issue 1979


:DDBが30年前に創立された時、あなたの責任はクリエイティブ分野でした。
今日の広告のクリエイティブの仕事と何か違いがあると思われますか?


バーンバック クリエイティブな面では特に根本的な違いはないでしょう。
昔私たちのクライアントのひとつがいくつかの代理店を招いて、10年間に広告がどう変わるか討論の場を持ったことがありました。
私たちは表もグラフも持たず、ただひとつの視点だけを持って行きました。

それは広告は10年後も100年前と変わらず、これからの100年後も変わらないだろうという視点です。
要するに成功するのは人びとの心に触れ、動かすことのできる才能を持った人であり、その才能のない人は成功しないということです。
何を言うべきかを見つけるために時間とお金を使ったら、そのメッセージを人びとをひきつけるように言う方法を見つけねばなりません。
そうすれば、それは人びとの心に触れ、動かすことができるからです。


:しかし何を言うかも見つけねばなりません。


バーンバック もちろんです。
私たちはサービス分野の人びとが提供できるすべての事実、知識を非常に欲しがります。
そうすれば単に刺激的というのではない、健全な仕事ができるからです。

しかし人を切れるような刃はそうした事実に生命を吹きこめる芸術的才能なのです。


参考】オーバックスのこの猫の貴婦人の広告の訳文とエピソードは→ジュディ・プロタスとのインタヴュー


シェイクスピアの小説の筋はすべて彼の時代の三文的な史実を基にしています。
すべて印刷になった事実ばかりです。
そんな三面記事に永久的な生命を吹きこんだのは、彼のユニークな才能、ユニークな語り口なんです。

内容と仕上げとを分けることはできません。

業界では内容は大切だというのがファッショナブルとされています。
しかし生命とはそんなものではありません。
人間はコンピュータじゃないのです。
人は内容が何であるか見つけるために遂一調べたりしません。
表現の仕方で内容に人びとを魅きつけ、心をそそればいいわけです。


:ところで、表もなし、グラフもなしの、例のプレゼンテーションはどうなりました?


バーンバックもう一度招ばれ、その会社の全社員の前でプレゼンテーションをやりました。


:最近では代理店のサービスの方が強調されているようですが。


バーンバック 確かに、私たちはサービス業です。

創立当初は私たちはクリエイティブな仕事の質の良さで成功しました。
しかしそれだけでは永続はしません。

アカウントが大きく、より複雑になるにつれ、すぐれたサービスも必要となるものです。
私たちはその完成にのり出し、現在では、みごとな成果をあげています。
クリエイティブ分野のスターのことはよく語られますが、ルース・ジフ、マイク・ドレクスラーといった人たちも、すばらしいスターなのですよ。


 彼らはここに来る前からその世界の......リサーチ、メディア......のスターでした。
クリエイティブ分野では、話は違いますね。


バーンバック クリエイティブのスターはDDBだから育った


バーンバック ええ、まあ。創立時のクリエイティブ・ピープルたちは入社当時はスターとはほど遠い存在でした。
DDBでスターになったのです。
これはすばらしいことですよ。


私たちのコンセプトは、私たちの視点から見てオリジナルかつユニークなパーソナリティをかかえることでしたから。


もし、われわれが「登りつめた人びと」を追っていたら、彼らは自分たちを作った事物を忘れ、再び私たちの視点でもとから始めなければならなかったでしょう。
至難の技ですからね、それは。


:ずい分多くの入賞する人材を見つけられましたね。


バーンバック 徐々にですがね。最初の作品で才能の片鱗が見られないからといって、その人に才能がないということにはなりません。


だからクリエィティブ分野の人びとにとって、環境は大切だと言うんです。適切な環境......まわりでエキサイティングな仕事が行なわれている、クリエイティブな仕事が行なわれているといった......に置かれれば、ほとんどの人が遅かれ早かれ芽を出し、その中から優秀な人びとが幾人かは出てくるものですよ。


:DDBを語る時、よく使われるのがその「環境」という言葉です。普通、その前に「特別の」という言葉がつきますが。


バーンバック そうです。
当社を出ていったクリエイティブ・ピープルが戻ってきた時、必らず「家に戻ったようだ」と言います。
でもここを出てどこかよそへ行ってみないと違いはわからないでしょう。


参照ELALイスラエル航空のこの広告の訳文とエピソードはビル・トウビンの[あまりにも無秩序な]


多分それは矛盾の無さからくる深い感情なのでしょう。
私たちが愛情をもって育てていることはよく知られています。
そして愛情を持って育てるなら、同時に規律も重んじなければなりません。


「イエス」でないのに「イエス」と言うのは簡単です。
しかしそれをやると、彼らは傷つき、代理店も傷つきます。
「ノー」がふさわしい時に、「ノー」と言って初めて「イエス」が生きてくるのです。


:このようにひとつ屋根の下に多くのクリエイティブ・タレントが集まった例はないでしょう。


バーンバック しかも外へ行って、すばらしい才能を持った人をさがし、買って来たわけではないんですからね。
皆ここで育った人たちです。
このクリエイティブな環境で。


私たちはクリエイティブな作品に専念しています。
それはこれからも続けねばならないでしょう。


私たちはどこよりもベターだと思います。
しかしベターでは十分とは言えません。


全ての作品をすばらしいものに作りあげるよう努力せねばなりません。
それを目標に定めなければ、何もいいことは起こらないでしょう。


:あなたは今だに創立時のパートナーたちと友だちですが、なかなかそういう例はないでしょう?


バーンバック そう、実にいい友だちです。
すい分前ですが、あるレポーターが私に同じことを聞きました。
「私たちのように金を稼ぎ、成功すれば、パートナーは愛し合うようになるものさ」と答えましたがね。
しかし私たちの関係はそれを越えています。
お互いにとても深い感情を持っているんですよ。




1984年6月1日、DDBは創業35周年を、マジソン街の新しいビルで晴れやかに迎えていたが、この年の『DDBニュース』には、バーンバックさんのインタヴュー記事は収録されていなかった。
2年前の10月2日に、急性白血病バーンバックさんを不帰の人としていたからである。
「33年間、ありがとうございました」


どなたでも、コメント欄に訳して、鎮魂の献花となさってください。

fuku33 さんの試訳

ビル・バーンバック(1911-1982)。


「ほんとうの巨匠はいつも、事実から創造と着想の領域に飛び込む詩人である」と氏は語った。



氏は広告を芸術に高め、我々の賃作業を専門家の仕事に変えた。


彼はなんにでも違いを作りだした。

shoshiro さんの試訳

ビル・バーンバック1911〜1982


バーンバックは言っていた。
「真に偉大な才能とは、いつの時代でも、現実からイメージとアイデアの世界へ跳び込む詩才だ」と


彼はこうやって、広告を優れた芸術に高め、広告の仕事を知的な専門職に引き上げました。


彼は広告をまるで違うものにしたのです。

DDB


DDB紹介の「終結宣言」
chuukyuu


1979年から)もう、 7〜8年前になりますか。
どこからともなく、「DDBはもう古い」という言葉がきこえてきました。いえ、なに、気にするほどのこともなかったのです。
男は自分が正しいと信じたことをつづければいいのですから。


でも、私は、すこしばかり神経質過ぎたようです。へーえ、そうかいな。DDBの考え方を日本の広告クリエイターは必要としないところまで成長したのかいな。じゃ、やめましょとばかりに、DDB紹介を思いきりよく、私は停止しました。


沈黙8年。ところが、アメリカにおいてもDDBを上まわる思想をもった広告代理店は出現しませんでした。
しかし私は、二度とDDB紹介の労をとる気になりませんでした。
私の耳には「DDBはもう古い」という地の声のような響きが残っていましたから---。


しかるにDDBは、相変わらず、私の手許に、社内報『DDBニュース』を送りつづけてくれていました。
私は、このニュースを使って、かつて、次の4冊の本をものにしたのでした。


1963年 『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』(美術出版社)
1965年 『繁栄を確約するDDB』(誠文堂新光社
1969年 『創造と環境』(同)
1970年 『DDBドキュメント』(同)


このほかにも、DDBに触れた文章は数知れません。


ところが、この夏(1979)に落手した『DDBニュース』Vol.18 6月号[DDB30周年特集]を見て、これだけは日本の全広告クリエイターに読んでもらいたい、と8年ぶりに興奮しました。


で、日米コピーサービスの鈴木編集長に、この号を全訳紹介することの意義を、久しぶりに熱っぽく説き、手許に残しておいていた資料を最後のつもりで提供するから、ぜひ全訳紹介してほしいと頼みました。


私の、上記の著書は、古書店界で高価を呼んでいると伝え聞きます。
それでも、現物がでまわらないそうです。


著書は、死蔵されるよりも読まれ・活用されることに意味があります。


私は、あえて、自著の市価を低めることのほうを選びました。
最後のサービスです。
広告クリエイターの皆さん。本シリーズ(前・後2冊)だけは座右において、折りにふれ、再読三読してください。
私は、本シリーズ完成後は、保存しているDDB全資料を焼却し、二度と紹介の労はとらないつもりです。


明日からは、[ニューヨーカー・アーカイブ]によるビートル・シリーズを1ヶ月ほどつづける予定です
ライフ』誌を主軸媒体としながら、少ない予算を、ビートルの客層とはまるで異なる『ニューヨーカー』誌にもなぜ振り向けたのかをたどるだけでも、知的開発になりましょう。大いなる議論を---