(272)ダビッド・ライダー氏とのインタヴュー (連結篇)
バーンバックさんの肩書きが社長から会長となったとき、18年間兼務していたクリエイティブ・ディレクターの職責を、ロバート・ゲイジ氏に代わってもらうことにしました。
ところがゲイジ氏は「これは激職です。一人では無理」と主張、ライダー氏に準クリエイティブ・デイレクターになってもらったのです。
ライダー夫妻とは、ロングアイルランドに住むビル・トウビン氏(DDB取締役副社長 アート・ディレクター)の邸での晩餐会で、1966年秋に会っていました。
その後、再三にわたるインタヴュー申し込みは、テープレコーダは使わないでと断られつづけ、3年経ちました。
1970年4月、ついにこのインタヴューに成功。DDBの友人たちが驚いていいました。「chuukyuuはインタヴューの魔術師だ」って。
政治広告を誇りに思っている
chuukyuu「あなたがつくった広告の中で、もっとも気に入っているものを二つあげてください」
ライダー氏 「『なんのために』と、『私たちのビールは、50年も時代遅れです』のユチカ・クラブの広告です。
(訳文は最後尾に。)
あなたは、私がいとも簡単にこの2つを選び出したとお思いかもしれませんが、たくさんの中から二つを選び出すというのは、なかなかどうして、難しいものなんですよ。
あなたが10点選べといってくださると、よっぽど気楽に選べるのですが、2つだけといわれると、同じようなレベルのものが多いためにかなり苦労させられますよ」
chuukyuu「それでは、挙げていただいたふつに次いで、気に入ったものを選んでいただくとしたら、どうなりますか?」
ライダー氏 「バーンバックさん、レン・シローイッツといっしょにやったスポック博士のものなんかもとくに気に入っているものの一つです。
ところでchuukyuuさん、あなたは私がつくったいろいろな政治広告をご存じですか?」
chuukyuu「知っているつもりです」
ライダー氏 「私が、私が手がけた政治広告をとても誇りにおもっているわけは、これらの多くが、手をさしのべてくれる人もいないような恵まれない人びとのためにつくられたものだからです。
米国では、多額のお金を投じないかぎり、人びとの関心を集めるのはまったく不可能であるといっても過言ではありません。
しかし、こういった政治活動に関しては、それが通用しなくなることもたびたびあります。その場合、人びとの関心をひく動因となるのが多くの場合、お金に事欠く人びとや組織にあるのです。
きっとあなたの国でも行われているのではないかと思うのですが、いかがです?」
chuukyuu 「その通りですね」
ライダー氏 「大きな組織も広告代理店もなく、お金もないという不幸な条件にもかかわらず、実際に大きな働きをしているのがこうした人びとなのです。
そして、彼らの努力が実を結んだ時、たくさんの人びとからの寄付金の形で報われるのです。その額が実際にかかった費用をはるかに上回ることはしばしばあります。
こうして高められた人びとの関心は、さらにベトナム戦争反対運動、核戦争反対運動へとエスカレートしていきます。
ですから、最も誇りにしている広告はなにかと聞かれたら、即座に政治広告と答えます。
それは、当時、こうした広告をつくっていたのが私のほかにはいなく、また私は、そうした仕事が人びとの関心を刺激した一つの要因になったと信じています。
さて、話をもとへ戻し、商品を対象としてつくった広告の中私が最も気に入っているものに最初の3年間はビル・トウビンと組み、つづいてボブ・ゲイジと、さらにシド・マイヤーズと組んでつくったユチカ・クラブ・ビールのキャンペーンについて。アーニー・ハートマンがテレビのプロデューサーでした。
この広告は、私の人生において、一つの転換点となりました。シュルツ&ドーリー( Schultz and Dooley )はご存じですか?」
chuukyuu「いいえ、残念ながら…」
75本もあるシュルツ&ドーリーのTVCF
ライダー氏 「シュルツ&ドーリーっていうのは、私がビル・トウビンと組んでつくったもので、イラストレーションのビール・ジョッキがおしゃべりをするTVCFです。ほんとうにシュルツ&ドーリーをご覧になったことはないですか?
chuukyuu「ええ、ありません」
ライダー氏 「このコマーシャルは、大いに成果があがったものなのです。
このシリーズは5年間に75本もつづきました。
このほかに私がつくったコマーシャルは、レス・フェルドマンとやったタイガー・ボウのキャンペーンや、ユニ・ロイヤルの雨用タイヤのキャンペーンなどがあります。
このほか、ビル・トウビンとやったジレットのスポイラー、レン・シローイッツとやったマッカーシー・キャンペーンなど、ほんとうにたくさんあります。
ユチカ・クラブのこの広告は、ビル・トウビンとバーンバックさんの3人でいっしょにつくった、とても有名なものです。
でも私は、ビールをこのように有名にすることが、骨折り甲斐のある仕事なのかどうか、疑問に思うこともあるんですよ」
chuukyuu「『私たちのビールは、50年も時代遅れです』というヘッドラインは、バーンバックさんがお書きになったと聞いていますが…」
ライダー氏 「いいえ、そんなに簡単なものじゃないんです。みんなが協力しあってつくったものなんです。
私は、一つの広告をとりあげて、ここは誰それがつくり、あそこは誰それがつくったといちいち名を挙げて説明するやり方、好きじゃないんです。
バーンバックさんとビル・トウビンの3人、いっしょになってつくったんです。それだけで充分じゃありませんか。
誰がどうしたのこうしたのというようには、いいたくありませんね。
もうおわかりでしょうが、これは誰それのヘッドラインで、これは誰それのアイデアであるといった具合に細かくお話することは私の信条に反することになるんですよ。
そりゃあもちろん、アイデア一つとってみても、それが私のものであったり、バーンバックさん、あるいはアートディレクターのものだったりすることはありますが、まず第一に、人びとの協力があってはじめて一つの広告ができあがるのです。
みんなでつくりました、というのが一番いいんです。
少なくとも、これについては半々というのが私の考え方です。誰それがどうでこうでというより、よっぽどいいんじゃないかな」
chuukyuu「比較的、以前の広告ですよね」
ライダー氏 「そうですね。1962年のものです」
chuukyuu「トウビンさんがアート・ディレクションをなさった…」
ライダー氏「そうです」
chuukyuu「ロバート・ゲイジさんとも組んでユチカ・クラブの広告をおつくりになりました?」
ライダー氏 「そこのところは、もう少し詳しく、初めからお話ししましょう。
そもそもこの広告のヘッドラインは、私とビル・トウビンがいっしょにつくったものなんです。古いお盆の写真のがそれで、お盆は60〜70年前の代物。このお盆の上にビールが注がれたコップを載せたラフ・スケッチをトウビンが描き、それから2人でヘッドラインをひねりだしました。
トウビンはそれまで3年間もユチカ・クラブ・ビールの広告づくりに携わっていたのですが、たまたま、ほかにもやっていたアカウントの仕事が忙しくなって、手も足も出ない状態になってしまったのです。
そこでトウビンに代わってボブ・ゲイジがアートディレクターとなりました。ゲイジと私は、ヘッドラインはトウビンと私とですでにつくっていたものを使い、写真は新しくハワード・ジフに撮ってもらいました。
ジフのオールド・ファッションの一連の写真を使うことによって、この新しいキャンペーンを発展させて行きました。これは、とても評判のよかった広告なんですよ」
(この当時ぼくは、ビールといえば、ピルゼン・タイプの日本のビールしか知らなかった。『ベルギー風メグレ警視の料理』(東京書籍 1992.5.22)の取材でジョルジュ・シムノンの故郷ベルギー各地で昔ながらの上面発酵の地ビールを試み、すっかり、その味わい深さのとりこになった。それで、『私たちのビールは、50年も時代遅れです』の意味深長さに共感できた)。
SANEのために考えた広告をマッカーシー用に使った
chuukyuu「これはマッカーシー上院議員のための広告ですか。それとも、反戦広告なのですか?」
ライダー「これについては詳しく話さないとね。この種の広告にはエピソードがつきものですから。
これは、レン・シローイッツとこしらえたものですが、コンセプト(基本になる考え方)は、もともとはSANE(核使用規制全国委員会)のために練り上げたのでけすが、残念ながらあまりにも刺激的すぎるとのクレームがつき、陽の目をもませんでした。というのも、当時はまだベトナム反戦の口火がきられたばかりで、おそらくSANEにはいまの反戦活動が予期できなかったのでしょう。
雑誌にでも掲載してみたらという声もSANEの一部にはあったのですが、理事会からの強烈すぎるとのお達しに屈するしかありませんでした。
ですから、ずっとお蔵入りのままでした。
1年後、マッカーシー上院議員の選挙運動が始まって間もないころ、その戦術会議に出席するようにいわれたのです。会議が終わり、自室へ戻る途中、の廊下で、たまたまいっしょにいたマッカーシー議員に、この広告のことを、使うならいまが絶好の機会だと告げてみました。
議員は、いちど見てみようと、私についてきました。
広告を見た議員はとても感動し、それから数人が掲載料を算段して「ニューヨーク・タイムズ」へ載せました。当時の掲載料は約5,000ドルでしたが、センセーションを引きおこし、掲載料をまかなってなお25,000ドル以上もの寄付金があつまりました。それで、もう一度(NYタイムズに掲載、このときも25,000ドルを上回る余剰金を生みました)
さらに当時、選挙活動をはじめたばかりの他の地区のマッカーシー委員会の目にもとまり、全国的に掲載されました。
さらにまた、レン・シローイッツと私は別の新しい広告をつくるようにニューヨークの委員会から依頼されたばかりか、マッカーシー全国委員会からも『最高の広告をつくりましたね』との賞賛とともに次の広告の依頼がありました。
これの本文、お読みになったことはありますか?」
chuukyuu「はい。じつは2,3年前に、レン・シローイッツ氏の作品を日本の専門誌に紹介したいから、資料を送ってほしいと頼んだのです。その時に彼が送ってくれたものの中にこの広告も入っていたのです。何点かを選び、日本語訳をつけて紹介しました。もちろん、この広告も紹介した一つでした」
ライダー氏 「こうした政治広告は、かなり前につくったものであるにもかかわらず、あなたがこのように私の仕事に注意を払って下さったこと、そしていまもそれが変わらないことをうかがって、とても誇らしく思います。
ところでこのベトナム戦争の広告は、1967年か68年に書きましたが、ここで語っていることは、残念ながら、すべていまも真実なのです」
chuukyuu「マッカーシー議員の仕事をしている間、会社の仕事を一時休んでいらっしゃったと聞いたのですが、本当ですか?」
ライダー氏 「はい。最初のスポック博士の広告だけが、SANEのための社としてのオフィシャルな仕事で、その後に手がけたすべての政治広告は、あなたのいわれるとおり、会社から離れた、いわばボランティアでやらせてもらった仕事です。
会社側もバーンバックさんもこの点についてはとても理解があって、私のこうした仕事に文句をいう人はいませんでしたよ。
とくにバーンバックさんの場合は、私たち個人の権利を十分に認めていましたし、一市民として暇のあるかぎり、こういった仕事ならすすんでやるようにと人びとに勧めていたほどです。
ところが、シローイッツと私がマッカーシー議員の仕事をしている最中に、今度はハンフリー議員(同じ民主党から大統領候補として立った人で、マッカーシー議員と票を争った)からオフィシャルに広告の依頼があったのです。この話はご存じですね?
会社側がこの依頼を受けたために、シローイッツと私が相変わらすマッカーシー議員のための仕事をつづけている一方で、ほかのスタッフはハンフリー議員のための仕事をするという、なんとも奇妙な空気がただよいましたよ。政府もこの事実を快くは思っていなかったらしいのですが、バーンバックさんは私たちの行為を正しいと容認したのか、マッカーシー議員のための仕事から手を引くようになどとは一言もいいませんでした。
実際、会社がハンフリー議員の依頼を正式に受け入れた時、バーンバックさんは、私たちの仕事に水をさすまいと決めていたのです」
DDBの雰囲気は、苗木を育てる土壌と日光と暖気
chuukyuu「いまあなたがお話になった広告は、あなたがDDBにいたからつくりえたとお考えになりますか? それとも、他の代理店にいたとしてもつくりえたとお考えですか?」
ライダー氏 「DDBにいたからこそできたと思います。
しかしあなたが、いまDDBを離れて他の広告代理店へ移っても同じような広告がつくれるかどうかとお尋ねになったら、答えは違ってきますがね。
この代理店は、ここにいるすべての人びとに大きな影響を与えてきました。むろん、私もその一人です。
ここにある、一種独特のユニークな雰囲気については、きっと多くの人びとから聞いていらっしゃると思います。
その雰囲気とは、そうですね、おそらくこんなものだと想像していただけばいいと思います。
植物が芽をふき、花を咲かせ、枝をのばし、その幹を大きくしていこうという時、とくにそれが苗木のようにな場合にどうしても欠かせないのが肥えた土壌と、日の光りと、それから寒すぎることも暑すぎることもない穏和な気候ではないでしょうか。
こうした条件をすべて備えているのが、そして常にそれを保つように努めているのがこの代理店なのです。
こういうところで養われた人びとはおそらくほかで育った人よりも、よりしっかりした自覚を身につけることでしょう。
そういうことから考えても、もし私にバーンバックさんをはじめとするDDBという代理店のバックアップがなかったら、いまのダビッド・ライダーは存在しなかったと言っても決して過言ではないのです」
chuukyuu「いまあなたはDDBの環境についてお話しになりましたが、その環境はあなたがここへお入りになってからずっと変わらずにあるものなのですか?」
ライダー氏 「私がこの代理店に入ったのは、いまから16年ほど前なのですが、当時の年間扱い高は、800万ドルだったと記憶しています。そんなものだったと思います。
そして当時、この代理店にはコピーライターは4人しかいませんでした。
・
創業時からいたフィリス・ロビンソン夫人がコピー・チーフで、そのあと入社したロール・パーカー、ジュディス・プロタス、エリ・クラマー、これですべてでした。その次に入ったのが私で、つまり4人目の新人でした。
こんなわけで、そのころの人間関係はいまのそれよりずっと密接だったことは事実です。
DDBが大きくなるにしたがって、そうした関係はしだいに薄れていきましたが、ここでとくに注目しなければならないのは、当時のDDBの姿、あるいは性格といったものをいかに多く現在に留めているかという点なのです。
現在は、その組織といい質といい、大きく成長したDDBでありますが、それにもかかわらず<その内容はコピーライターがわずか4人しかいなかった当時とさほど変わっていないという点から考えても、DDBのユニークな性格は言わずと知れようというものです。
優秀な人材を備えていながら成功からほど遠く見放された代理店がいくつもあるのに、どうしてDDBはその本来の性格を失うことなくこれまでに成長できたのだろうか、とあなたは不思議に思われるかも知れません。
毛沢東主席の古くからのスローガンで、『われわれの庭には種類の異なった花をいっぱい咲かせよう』というのがあります。毛沢東主席自身は、『文化大革命』の時にその考えを捨てましたが、バーンバックさんは、実際に、DDBにそのスローガンを適用したのです。
そして、この辺にDDBの繁栄を解く鍵が隠されているのではないかと私は思うのです。
確かにバーンバックさんはこのスローガンを忠実に守ろうと努力してきました。
そして、みんなが彼を支えてきたのです。
ここには強い個性を、あるいはパーソナリティをもった人がたくさんいます。
彼らはそれぞれのパーソナリティを見失わないようにしながら、それぞれ正しいと判断した方法にしたがって自己を高めることが可能なのです。
ですから、彼らは、まがいもののバーンバックになることはありません。
押しつけてまでも自分の思い通りのことを人びとにさせるようなことはなく、彼らにすべてをまかせ、かつ彼らを信頼したバーンバックさんの導きがあったからこそユニークな代理店としてのDDBが誕生したのです。
これはDDBの大きな躍進と成功を、さらにまた人びとが誰の手も借りずに自己を高めたという事実をしっかりと把握するために、決して忘れてはならないことなのです。
いかなる組織であろうと、こうした成功を願うなら、DDBを手本にすべきであると私は考えます。多くの場合、指導者が偉大であればあるだけ、人びとは彼の命令に屈することを余儀なくされ、あらゆるものの判断も彼なしではできなくなってしまうのです。
そんなやり方で成功を願うなどということはとんでもない間違いです。
そんな指導者の下ではろくな人間は育ちません」
For What?
なんのために?
なんのためだか、お話ししましょう。
なんのためでも、まったく、なんのためでもないのです。
高い位についている人たちは、自分たちがひどい過ちを冒していることさえ認めたがらないほど、器が小さいからです。
過ちと認めながらも、やってしまったのだから、ともかく体面を保たねば、という人がいるのです。
政府のスポークスマンは、この戦争についての真実を、何度も何度もごまかしているからです。
新聞の見出しを書く人は、たくさんの人が殺されていることをまるでバスケットボールの試合のように、嬉しそうにネタにするからです。
サイゴンの軍隊は、自分たちの国の人間が戦おうとしないので、われわれの軍隊に支援してもらわなければならないからです。
あの不幸な国にいる暴利をむさぼる商人たちは、われわれのお人よしを笑いながら、われわれのお金をスイスの銀行に貯めこんでいるのです。
こいういことのためにわれわれの国の若者を徴兵し、そして殺したり殺されたりするために、よその国へ送りこんでいるのです。
お父さん、お母さん……彼らが、あなたの息子さんにこんなことをやらせるのを、どうして座って見ていられるのですか?
若者へ……どうして彼らがあなたたちを、まるでサラミのように、たとえば、学校に行ってない人たちに対しては学生を、在学生に対しては卒業を、そして予備兵に対しては徴兵を受けた者……というように切り刻むのを見過ごしているのでしよう?
納税者へ…あなたがたはいったいどんなことがあった時に立ち上がり、あなたがたの税金をまるでそうするのが彼らの仕事であるかのように無駄使いしているワシントンの紳士たちに、もうたくさんだと抗議をするのですか?
(中略)
あなたは、「でも、一個人になにができる」とおっしゃるのですね。
お答えします。
「なんでもできるのです」
なぜなら、政治家が大衆をもっとも怖れ、もっとも尊重するのは、大衆が立ち上がった時なのです。そしてその時には、彼らは誤りを冒しません。
(以下、マッカーシー議員を大統領候補へ、と呼びかける)。
Our beer is 50years behind the times.
私たちのビールは、50年も時代遅れです。
(私たちはそれを誇りにしています)。
あなたがフロント・ポーチの時代に育っていたのなら、私たちのビールの味を飲みわけるのは、なんの造作もないことでしょう。
お父さんが、いつもあなたを横丁の酒場まで買いにやらせたのと同じビールです。
あなたはいつもグローラーに入れて持ち帰ったでしょう。
(グローラーがどんなものかをご存じないなら、あなたはそれがどんなビールだかを知らないのです!)。
ホップをかぐことができます。
モルトを味わうことができます。
コクと個性があります。
いまのほとんどの米国製ビールのようにカーボネイト(炭酸入り)されすぎてはいません。
伝統的なビルゼン風の味がします。
なぜって、私たちがいまも伝統的なやり方で作っているからです。
(中略)
私たちのビールの名前はユチカ・クラブといいます。
グラスをあけるのにいちばんふさわしい場所はフロント・ポーチです。
お宅にフロント・ポーチがなければ、まあ、裏庭でもいいでしょう。
(chuukyuu ひとりごと;'90年代に人気のあったボストン在住の私立探偵スペンサーは、ビール好きとしてしられている。文庫第3話『約束の地』p212 第4話『ユダの山羊』p200では、アテムステルの代わりにユチカ・クラブを愛飲している)。
(このインタヴューは、旧著『劇的なコピーライター』(誠文堂新光社 1971年3月10日刊)に収録されたものです。インタヴューは1970年4月に、DDBのライダー氏の個室で行われました。当然、氏のチェックと加筆・削除ずみです)。
DDBから採用通知がきたたのは6ヶ月後だった
chuukyuu「16年前(1954)にDDBへお入りになったと言われましたが、その前は何をしていらっしゃったのですか? DDBへお入りになった経緯をお話しください」
ライダー氏 「16年前の私は、ある小さな広告代理店のコピー・チーフをしていました。そこには5年いたのですが、当時の私はすでに35歳になっていながら一向にぱっとせず、なんとなく活気に欠ける会社にただ、甘んじているばかりでした。
そのうちにどうしてもそこにじっとしていられなくなり、ついにはいつまでもここにいたって始まらないと考えるようになったのです。
それでも私は、かなりいい仕事をしていたのですよ。
でも、もっと自分を磨きたかったのです。
そこを辞めて、私はウォルター・ローウェンと呼ばれる私設の職業安定所を訪ねました。当時この安定所は広告関係の仕事の斡旋では最大といわれていたので、とにかく履歴書だけ置いてきました。
3ヶ月ほどしたある日、そこの担当者から電話で、DDBの人が一度会って話が聞きたいといっていると伝えてきました。
早速、サンプル・ブックを持って出かけて行ったのですが、そこで私を待ち構えていたのが、後でフィリス・ロビンソン夫人とわかりました。
なごやかなインタヴューが終わり、サンプル・ブックを置いてDDBを出ました。
1週間後にフィリスから呼び出しの電話があったので、これはもしかすると、という期待に胸をはずませて再びDDBへ出向いたら、あにはからんや、前に置いていったサンプル・ブックを持って帰るように言われただけでした。
フィリスからの採用の手紙を受け取ったのは、その後なんと、6ヶ月も経ってからだったのです。たかが一つの仕事のために半年も待たされてしまったのです。
後になって、DDBはコピーライター一人を採用するのにも何ヶ月もかけるということを知ったのですが、当時の私は何がなんだかさっぱりわからなくて……。
ちょうどそのころ、DDBは新しくコピーライターの補充を考えていた時で、その第1号に私が選ばれたというわけだったのです。
chuukyuu「あなたがDDBへお入りになった頃、すでにDDBはこの業界では評判の良い広告代理店とされていたと聞いたのですが、そうでしたか?」
ライダー氏 「そうです。すでにみんなによく知られた広告代理店になっていました」
「家貧しくして孝子出(い)ず」のたとえ
chuukyuu「話題を変えます。いつ、どこでお生まれになりましたか?」
ライダー氏 「ニューヨーク市で生まれました」
chuukyuu「育ったのも?」
ライダー氏 「はい。生粋のニューヨークっ子です。『ボーン・アンド・ブレッド・イン・ザ・ブライヤー・バッチ』というわけです。この意味、おわかりですか?」
chuukyuu「いいえ」
ライダー氏 「どんなに巧みに、そして正しく音楽を操るコピーライターでも、スラングや特有の方言、古くからの諺といったものを知らないうちに使っていることがあるのですが、この『ボーン・アンド・ブレッド・イン・ザ・ブライヤー・バッチ』もその一つで、トゲが多いとか困難なという意味です。そうですね、たとえば、あなたもご存じのニューヨークの町のようなものです。そこで生活するのはむずかしいですからね」
「それで、どんな幼年時代だったのでしょう?」
ライダー氏 「とても貧乏でした」
chuukyuu「性格は?」
ライダー氏 「とてももの静かな子でおとなしく、恥ずかしがり屋でした」
chuukyuu「どんな種類の本を好んで読みましたか?」
ライダー氏 「ピノキオが気に入ってました」
chuukyuu「コピーライターになろうと決心なさったのは幾つぐらいの時でしたか? その理由は?」
ライダー氏 「高校進学の問題にぶつかった時です。そう、ちょうど、あの大恐慌の、1932年のことです。ところでchuukyuuさん、あなたはいま、お幾つですか?」
chuukyuu「39歳です(注:38年前ですからね)」
ライダー氏 「私は51歳ですが、さて、自分で行くべき高校を選び出さなければならなかった時、家はひどく貧乏だったんです。
父は職につくことができず、兄や姉たちも、仕事を探していました。
ですから高校を卒業したら私もどこかで働かなくては、といった義務感みたいなものをその頃から持っていました。
大学などには行かせてもらえないということは、百も承知していましたし、高校を出たら働くのが当然とも思っていました。
そこで私は、なにか技術を身につけておいたほうがいいと考えて、速記の中でもとくに法廷速記述を勉強するためにニューヨークにある商業高校に進むことに決めました。
法廷速記人の仕事がどんなものか知ってらっしゃいますか?」
chuukyuu「映画の法廷場面で見ています」
ライダー氏 「高校で一所懸命に勉強し、速記のほうもかなり腕をあげたのですが、そのうち、学校新聞に原稿を書くことに興味を持つようになり、ついには編集長という大役を引きうけることになりました。
そうしているうちに、時どき、翌日までに印刷所へ原稿を届けなければならないということがあったりしたために、ストーリーを早く書くことを覚えました。これはよい訓練になりました。
高校を卒業する頃には、1分間に150ワードを書き留める有能な速記者に、一方ではそのまま十分社会で通用するライターになっていました。
ところが学校を卒業してみると、これは1936年のことなのですが、世の中はひどい不景気で、仕事を探すのは不可能に近い状態でした。
やっとニューヨーク・タイムズの求人欄で見つけたのが、週給12ドルの新人コピーライターの口だったのです。
こうして私は、1936年にコピーライターとしてスタートを切りました。
それ以来、現在にいたるまで、ずっとコピーライター一本槍で過ごしてきました。
コピーライターなどやめてしまおう、そう考えたことはただの一度もありません。ただひたすらにコピーライターの道を歩んできたのです。
いまでも私の生活の半分以上はコピを書いたりコマーシャルを書いたりすることですが、それを不満に思うことは決してありません。それどころか、大いに満足していますし、喜びであるとも感じています。
ただ、人に指示を与えるだけですむような仕事など、やりたくありませんね。
以上が、1936年以来、軍隊で生活した3年半を除いて、今までずっとつづけてきた私の仕事の話です」
広告賞は信用できない
chuukyuu「あなたは各種の広告賞には興味がおありにならない…と聞いていますが、ほんとうですか?」
ライダー氏 「ええ。1962年以後、1回もそういったコンペに参加したことはありません」
chuukyuu「あなたの広告賞嫌いの考え方について、バーンバックさんが何かおっしゃったことがありましたか?」
ライダー氏 「いいえ、一度もありません。バーンバックさんは、ほかの人の権利を尊重しますからね」
この件に関して、ライダー氏は、インタヴューではもっとたくさんの見解を、厳しい口調で話してくれました。が、書き起こし原稿を送ってチェックを求めた段階で、そのすべてを削除してきました。多分、公表することでほかの人が傷つくことを懼れたのでしょう。
しかし、もうすこし紹介しないと、氏の広告賞嫌いの真意が正しく理解されないと思うので、あえて要約してみます。
1962年のある広告賞の審査で、自信のあった氏の作品が受賞を逸しために、氏の心中に審査員不信任が芽生えると同時に「彼らにおれの作品の良さがわかるか」との思いになったようです。
賞なんて、どうせ人間が決めるものですから、大なり小なり不公正と見落としはありえます。
そう悟ってすべての広告賞への不参加を決めたライダー氏の態度は潔いといえますが、受賞をきっかけにして世に出る人も少なくないわけで、一概に広告賞無視をすすめることはできません。
とくにライダー氏の場合は、コピーライターとしてすでに名をなしていたし、DDBという恵まれた環境にいるわけでもありますから。
ライダー「もっとも、私自身は広告賞を無視していますが、いっしょに組んで仕事をしたアートディレクターが応募するのまでは止めようとはしません」
というわけで、各種の広告賞の年鑑類でライダー氏の作品にはあまりお目にかかれません。
バーンバックさんの助言「恐らく彼は正しいだろう」
chuukyuu「バーンバックさんがあなたに与えてくれた助言の中で、最も重要とお考えになっている言葉は?」
ライダー氏 「バーンバックさんが以前一度、私に打ち明けてくれたことがあります。バーンバックさんはいつもシャツのポケットに1枚の小さな紙片を入れており、それには、誰かと話しをする時にはいつも心にと留めている3ワードが書かれていると。
その3ワードは、"Maybe he's right." 『恐らく、彼は正しいだろう』というものです。
SANE(核使用規制全国委員会)のスポック博士の広告についてのあるエピソードを思い出しました。
この広告のコンセプトと『スポック博士は憂えている』のヘッドラインを考えだしたのは私たちなのですが、ボディ・コピー(本文)のほうは、私のすすめに同意したスポック博士が自身で考えてつくったものです。
なぜ私が博士にご自身の手で書くように勧めたかというと、博士には有名な著書という実績があったばかりでなく、この広告こそ、ご自身で書くべきだと強く感じていたからです。
当時、スポック博士はウェスタン・リザーヴ大学の児童心理学の教授でした。
1週間ほどかけて書いた原稿を送ってみえたのを読んでみると、子どものことは一切書かれてなく、あまり感心できる内容ではありませんでした。
当時のスポック博士は、とくに子どもに関することで多くの人びとから高く評価されていたのです。
私は、オハイオ州のクリープランドにいた博士を電話口に呼び出し、こういいました。
とてもよく書けたコピーではあるが、核実験が子どもたちに悪影響をおよぼすことは、ぜひともコピーの中で語られなければならない。
にもかかわらず、ここに書かれている大半は、アメリカ合衆国とソ連についての話と、両国の核実験禁止の必要性の話で占められている、と。
核実験が子ども与える悪影響については控えたほうがいいと主張する博士は、電話では長くなる、近くテレビ出演のためにニューヨークへ行くから、その時にじっくり説明する、と電話を切りました。
何日かしてやってきた博士を、バーンバツクさんに特別に出席してもらい、例の有名な円卓(いつもドアが開かれているバーンバっク氏の個室の丸テーブル)の席につきました。
バーンバックさんが博士に尋ねました。
『なぜ、先生は核実験が子どもにおよぼす悪影響ついてお書きにならないのですか。核実験は明らかに子どもたちに、とくにまだ母体にいる赤ちゃんにたいへんな害を与えるとは考えないのですか』
すると博士は、『確かにそれが疑う余地のないことは十分に承知していますが、広告でそうした事実を訴えたくないのです。
理由は、長いことの小児科医としての経験から、そのことを知った妊婦の恐怖が手にとるようにわかるからです。
よかれと思ってしたことが、逆に悪い結果を招くのではないかという懸念が離れないのです。
核実験の悪影響を知らされた妊婦は、生まれてくる子に手足がないのではないか、脳障害があるのではないかといった不安にとりつかれることを懼れるのです。
ですから、そういった種類のコピーは書きたくない」と本心を打ち明けてくれました。
ここではじめて私は、そうしたやり方では百害あって一利なしと知りました。
バーンバックさんと博士とのすばらしいやりとりがしばらくあって、博士が言いました。
「机と紙をお貸しください。妊婦を驚かすことなく、しかも私たちがほんとうに伝えたいとおもうことを新しいコピーにしましょう」
博士は、私が提供したオフィスで、このコピーを書き上げたのです。
Dr.Spock is worried
スポック博士は憂慮しています
もし、あなたがスポック博士の本で子どもを育てたことがおありなら、博士があまり小さなことにはこだわらない方だということをご存じと思います。
博士は、勤め先のオハイオ大学から、大気圏内核実験の再開について、つぎのようなメッセージを送ってきました。
「私は憂慮しています。
過去の実験の影響だけでなく、果てしない将来の実験の見込みについてもです。
実験が重なるにつれて、子どもにたいする悪影響もふえます…米国でも、世界の国々でも。
こんなことをする権利がいったい誰にあるというのでしょう。
そんなことは政府に考えさせろ、という人もいるでしょう。その人たちは政府がこれまでの歴史の中で犯してきた悲劇的な大間違いのことを忘れているのです。
また、よりすぐれた軍備が問題を解決してくれるという人もいます。その人たちは正義の強さを信じている人びとを軽蔑します。
その人たちは、あのかよわい理想主義たちが鉄の布となってインドからイギリス人を追い出したことを忘れているのです。
どの道をとっても、危険はあります。もし、将来に横たわる大きな危険をすこしでも少なくする希望があるならば、私はあえて今日の危険をとります。
もし、私が将来、何かの誤算で滅ぼされることがあるなら、私は、幻の要塞に座ってなすすべもなくただ敵を非難している時よりも、世界の協力を求めるリーダーシップをとっている時に殺されたいとおもいます。
モラルの問題としても、私はすべての国民が自分自身の考えを持つ権利だけでなく責任も持っていると信じます。
医学博士 ベンジャミン・スポック」
スポック博士は、核使用規制全国委員会のスポンサーにーなりました。
以下、SANE(核使用規制全国委員会)が何を表すかという簡単な説明とほかのスポンサーを列記。