創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(192)大もの---ジョージ・ロイス氏(24)

Great art director Mr.George Lois

ジョージ・ロイスへの道(4)


ジョージ・ロイス氏は、1978年、第57回目のニューヨーク・アートディレクターズ・クラブから「名誉の殿堂入り」の指名を受けた。この制度は始まって7年目で、翌年がヘルムート・クローン氏、1年置いてウィリアム・トウビン氏、次の年が写真家のリチャード・アヴェドン氏、さらに3年後がレン・シローイッツ氏だから、いかに早かったかわかる。
指名された年の『ニョーヨークADC年鑑』に、表題の文章が載った。大要を数回にわたって紹介している。


この劇的な「広告革命 Creative Revolution」は1960年代を通して促進され、数人のアートディレクターとライターが若い広告代理店を設立し、成功してみせた。その成功とは、単にレイアウトに凝ったり精妙に飾り立てた広告でなく、訴える実体を際立たせた広告美術を示すことによったもので、広告制作者たちに強い影響を及ぼした。その創造性のイースト菌は、心あるアートディレクターたちの体内で醗酵をはじめ、行動をうながしたのである。
1954年1月、 兵士ジョージ・H・ロイス、米国陸軍US51161237は、朝鮮戦線から帰国、除隊---一般市民としての生活をとり戻した。
ロイスは、CBSのビル・ゴールデン(注:CBSの目玉のマークを作った人)の下でアートディレクターとして働くことになった。そこはデザイナーの天国であったが3年後に転職してしまった


chuukyuu注:ロイス氏がぼくに語ったこと---
CBSは、頭で考えること、才能を育てることを学ぶところではなかった。ここでは、印刷、活字、写真などの自分の技術に磨きをかけた。そして、広告デザインを愛するという精神を学びとった。
ビル・ゴールデンは、ぼくがいままでに会った人の中で、最も強い人だった。彼はどっかと椅子に座り、CBS中の人たちと戦い、質の良さを要求し---そういう姿を見ているだけで勉強になった」)


1957年、レンネン&ニューエルという、けっこう大きくはあるが旧来型の広告代理店に就職した。 数カ月の実りのないきつい仕事の一つに、アメリカン航空があって、ロイスのアイデアを通さないアカウント・グループの机をひっくり返したという伝説が、マジソン街に伝わっている。凡俗な人間たちの集まりだったとロイスはいう。彼は2ヶ月でここを飛び出した。


chuukyuu注:ロイス氏がぼくに語ったこと---
「ここは、ぼくの人生で最低の経験をしたところだ。あんなに不幸なことは、いまだかってなかった。女性がよかっただけだ。あとは最低。どんなところかって? ニューヨークの典型的な広告代理店としかいいようがない。ぼくは戦いずめだったよ」


彼はサドラ&ヘネシー社へ転職した。この社にいた有能なテザイナーのハーブ・ルバーリンにあこがれていたからである(ここでは、ロイスはしばらく落ち着いたが、長い間---というわけではない)。

【参考】ハーブ・ルバーリンの仕事の一部は、>>大もの---ジョージ・ロイス氏(4)


続く >>