創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(190)大もの---ジョージ・ロイス氏(22)

Great art director Mr.George Lois

ジョージ・ロイスへの道(2)

ジョージ・ロイス氏は、1978年、第57回目のニューヨーク・アートディレクターズ・クラブから「名誉の殿堂入り」の指名を受けた。この制度は始まって7年目で、翌年がヘルムート・クローン氏、1年置いてウィリアム・トウビン氏、次の年が写真家のリチャード・アヴェドン氏、さらに3年後がレン・シローイッツ氏だから、いかに早かったかわかる。
指名された年の『ニョーヨークADC年鑑』に、表題の文章が載った。大要を数回にわたって紹介している。


ロイス青年は家族がやっている花店で働く代わりに、プラット・インスティチュート(美術大学)に進んでいた。ストリート・キッドとして育ったこの鼻曲がりの若者はプラットで、とてつもなく慧眼の教師に出会ってしまった。この教師は、ロイスの飛びぬけて高い才能は、プラットの教育水準を越えていると見抜いた。ハーシェル・レヴィットがその人で、プラットでの2年間を終えたばかりのロイスに、リーバ・ソーシスを紹介し、作品を見てもらうようにすすめた。ミス・ソーシスは、ロイスの学校での課題作品を見るや、即座に雇った。ロイスも、妥協を許さない仕事をするミス・ソーシスのところで働くために、プラットを躊躇することなく中退した。ミス・ソーシスのアトリエで、ロイスは工芸の基本を学んだ。


chuukyuu注:ロイス氏がぼくに語ったこと---
リーバ・ソーシスさんは、名前こそ知られてはいなかったが、とても優秀な仕事をする人だった。ぼくの人生に最大の影響を与えた人は、彼女だ)
(その2---このとき、19歳だったロイス青年は、ロージイという女性と結婚している)


しかし、彼のこのキャリアは、頻繁に営倉へぶちこまれた陸軍への徴兵と朝鮮戦争への派遣によって中断された。陸軍は、反抗的な彼の行動は矯正の見込みなし---との烙印を押したが、前線での敵弾による負傷で除隊となった。ロイスによると、最後まで悔い改めしない反逆者だったと。


chuukyuu注:ロイス氏に、朝鮮従軍中、休暇で日本へも来たかと訊いたら、彼は笑って「佐世保に」と答えたが、いま気づいた。当時、佐世保に営倉があったのかも知れない。うかつだったなあ)。


アジアから戻ったとき、彼はキャリアを再開して、確固たる信念にしたがって、広告界に入りを志した。 花屋の息子は、自分は何が欲しかったかを知っていたのである---アートディレクターの先駆者としてのキャリア。ロイスはこの世界に入ると、工芸と商業美術の様相を一変させはじめた。米国のビジネス世界で洗練されはじめていたロイスは、ブロンクス的感覚にさらに頑固に執着しながら、プラットで学んだデザイン語法と自分で育んできた感性を広告代理店に向けていた。
ロイスが広告界に持ちこんだものを一語でいってみると「簡素化」であろう。チンドン屋のような騒々しさと嘘っぱち、お偉方と弁護士が幅をきかすなんとか委員会を一蹴し、ブロンクスの異教徒であるロイスが、米国の広告に、明快、知性、および趣味のよさをふきこんだのである。保守的なことでは定評のあるクライアントと広告業者が、ロイスの予想どおりにシャッポを脱いだかどうか敬礼を確認してください。
広告代理業界では、バーンバックオグルヴィー、リーブズ、バーネット、ウェルズなとがで金的を射止めつつあった。ロイスの成功はアートディレクターの勝利とでもいうべきある。
彼らのまぐれ当たりとも見える成功は、個人的な力量と悪魔的な情熱に支えられた残酷な競争力が通じて生じたものともいえる。しかし、ロイスの卓越した才能は、彼等を凌駕した。ロイスの技術とイメージそして短いフレーズとの直裁な混合は、広告美術の歴史の中で起こるべくして起こった現実ともいえる。

ボブ・ケネディのための政治広告キャンペーン】

「私の未来をニューヨークにかけています」

11月3日には、ジョンソン−ハンフリー−ケネディ・チームに投票を。


続く >>