創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(454)ボブ・エルゴート氏とのインタヴュー(4)


金子秀之さんが送ってくださった公共広告を集めたCDの中に、『ギブ・ア・ダム』のCMは、幸い、[家主]が収録されていました。一両日のうちに、[家主]をYouTube に。あとは、発見でき次第、追加することにしましょう。(2)の[葬儀]の所在をご存じの方は、お知らせください。


>>『ギブ・ア・ダム』[家主]CMはこちらで見られます


ヤング&ルビカム社 副社長兼アソシエイト・クリエイティブ・ディレクター(1970年当時) 



「ギブ・ア・ダム」の意味


chuukyuu 「『ギブ・ア・ダム』という言葉の裏には、 『ギブ・ア・ダイム』、つまり10セント募金のような意味が隠されているような気もしますが---」


エルゴート氏「決してそんなことはありません。なぜ『ノー』と答えるかといいますと、まず第一に私は語呂合わせが嫌いだからであり、第二にこのキャンぺーンを通してお金を集めようなどと思ったことは、一度もなかったからです。
私たちは、単に人びとの関心を引くために用いる強い言いまわしをさがしただけなのです。もう一つつけ加えるとすれば、それが標準英語からはずれていものを望んだのです.ところが『ギブ・ア・ダム』を批難する声が耳に入り、怒りを爆発させてからの私たちは、ほかに神聖をも汚す意味を含んだ言葉を望むようになりました。
あなたには信じられないでしょうが、『ダム』では強さに欠けるのではないかと真剣に考えたこともあるのですよ」


以前からY&Rで働きたいと思っていた


chuukyuu 「話題をかえましょうか。Y&R社でのあなたの地位は?」


エルゴート氏 「アソシエイト・クリエイティブ・ディレクターと副社長です。
いまでも暇な時にコピーを書くのが好きなのですが---。
自分で広告やコマーシャルを書いている時とはわけが違って、人が書くのを監督しているとやる気もなくなってしまいますよね」


chuukyuu 「いつ、なぜ、この代理店にお入りになったのですか?」


エルゴート氏 「Y&Rに入ったのは1966年です。以前からY&Rで働いてみたいと思っていたのです。
それはここがニューヨークにある大代理店の中でもクリエイティブ・ワークの真価を認める数少ない代理店の一つだったからです。
この業界で働いている多くの人びとと同様に、私もここがつくったイースタン航空の広告にとくに強い印象を受けたのです」


chuukyuu 「いま担当していらっしゃるアカウントは?」


エルゴート氏 「サンカ・コーヒー、ニューヨーク・テレホン、ノートン・シモン社、ニューヨーク都市連合などを現在扱っています。以前には、イースタン航空、レミントン電気カミソリ、ブレックなどのほか新しい商品を数多く扱っていました」


コピーライターに仕立てられた


chuukyuu 「いつ頃からコピーを書くようになったのですか?」


エルゴート氏 「1959年からです」


chuukyuu 「コピーライターになろうとした動機は?」


エルゴート氏 「私の場合は,コピーライターに仕立てられたといったほうが当たっているようです。
大学を卒業して史学士の資格をもっていましたし、絵の才能もいくらかありました。
そんなわけで、私はテッド・ベイツのアート部で働くようになったのですが、それはちょうど彼らがアナシンやガードル入りのコルゲートやアナヒストのムチンの入ったビーカーを前にして、そうした商品の広告をつくるために頭を悩ませていた頃でした。
それから、信じていただけないかもしれませんが、プリバレーション・Hの仕事をしていたのもあの頃でした。
そこでいくつかのストリー・ボードをつくり、クリエイティブ・ディレクターのオフィスに持っていきました。
私の提出したアイデアは細かい点まで気を配ったものではなかったのですが、それでも彼は気に入ってくれたようでした。というのは、間もなく私はコピー部に配属が晩まったことを知らされたのですから。
長い間テッド・ベイツにいたわけではないのですが、それ以来私はコピーを書くようになってしまったのです」


chuukyuu 「コピーライタ-になるために、どんなトレーニングを受けましたか?」


エルゴート氏 「これと決まった形のトレーニングを受けたことはまったくありません。
実際にコピーを書くことが主な勉強でした。それから、当時すでに古典となっていた広告やコマーシャルを研究することも忘れませんでしたし、才能ある人びととともに働くことも大いに勉強になりました。
こうしていると、コピーライティングについていろんなことを教えてくれた何人かのスーパパイザーやライターやアートディレクターのことを思い出すことができます。


新聞関係の人が出入りするバーの息子


chuukyuu 「お生まれになったのは?」


エルゴート氏 「1935年3月25日にニューヨーク市で生まれました」


chuukyuu 「当時あなたのお父さんは何をしていらっしゃったのですか?」


エルゴート氏 「旧マジソン・スクウェア・ガーデンのはずれでバーをやっていました。
この店に通ってきたのは、かつて多くのフアンをわかせたジャックンプシーやバーニー・ロスをはじめ,もとニューヨーク・レインジャーのチームの仲間たちが大半を占めていました。
このほかに、かつてのデイリー・ミラー社のウォルター・ウインチェルやニューヨーク・サン社のH・アレン・スミスやデイモン・ラニアンなど、多くの新聞関係の人びとも頻繁にこの店にきていました。
たしか父は、ラニアンがブロードウェイのために書いた作品の中の一つ、『ハリーという名の馬』のモデルは自分であるといっているのですが---」(笑)


chuukyuu 「あなたは小さかった頃、書くことはお好きでしたか?」


エルゴート氏 「あまり好きではありませんでした。この仕事を始めるまでは、ほとんどものを書くということをしませんでした」


chuukyuu 「その頃はどんなことをするのがお好きでした?」


エルゴート氏 「絵を描くのが好きでした。絵の素質はあったようです。そのほかに音楽や読書も好きでしたが、当時私の最大の関心事はスポーツでした」


chuukyuu 「どんなスポーツがお好きだったのですか?」


エルゴート氏 「野球やソフトボールやバスケットボールなどです。近所の子どもたちとローヤルズというチームをつくってよく野球をしていました。この仲間の何人かはとても野球が上手で、後にマイナー・リーグの契約を結んだ者もいたんです」


chuukyuu 「あなたが守っていたポジションは?」


エルゴート氏 「外野です。第二のジョー ・ディマジオになって、ヤンキーズのセンターを守ってみたいとあの頃は考えていたんですよ」(笑)


>>(了)