創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(760)『アメリカのユダヤ人』を読む(20)

 

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忠誠のしるし つづき



彼らはカード読みあげ式を非難する連中など軽く無視してしまう。
「大きなことを言う人は実際には自分の金を寄付したがらないものさ」とある
募金家がうそぶいていた。


 それにアメリカのユダヤ人の大多数はこの方法に反駁してはいない。
寄付は生活の一部となっている。
条件反射にさえなっている。
数年前アメリカ女子体操チームがオリンピック出発前にグロッシンジャーの客
の前で実演をしてみせた。
実演後には司会者が「オリンピック選手の1人、15歳の子に欧州遠征の費用
がないので、みなさんから募金を求めたいのですが」と提案した。
その言葉が終わるか終わらないのに、後の席のはげ頭の小男が
手を高くあげて叫んだ。「100ドル出す!」


 ユダヤアメリカ人の間で共同体の圧力が慈善の動機になっているなら、他の
動機はないようにも思えよう。
だがほかにもいろいろな動機が作用している。


 虚栄心も一大動機だろう。圧力をかけられたにしろ、そうでないにしろ、とも
かく寄付する人は己れの慈悲心を世に公言してはばからない。
メイモニズが最も神聖な寄付は匿名のものと説いた言葉が堕罪の日ヨウム・キパ)に毎
年引用されるが、神聖な匿名の寄付行為は稀れである。
ユダヤ人の慈善寄付の中の1%弱である。


 贈与者は名前が知れるだけでなく、不動のものとされるのも好む。
この欲望を満たすために、いろいろなものを寄付者の名前にちなんで命名する団体
が多い。
病院は建物から酸素吸入テントにいたるあらゆるものに寄付者の名前をつけている。
プランダイズ大学の全建物にはユダヤ人の名前がつけられている。
イスラエル国民はアメリカを「寄付者名銘板の国」とさえ呼んでいる。
ユダヤ人委員会の弘報担当者は銘板をつけるものを次から次へと考え出さなければ
ならない。
数年前、事務所の机にまで「寄付者名銘板」をつけようかと真剣に考えたこともあ
ったという。


 ユダヤ人慈善家たちは、非ユダヤ人慈善家以上に自分の名前をものにつけたがっ
ているのだろうか? 
この点ははっきりしない。
アメリカでは慈善は従来財力を誇示するためのぜいたくであったと募金運動家たち
が指摘している。
どの大学でもその建物に贈与者の名前をつけているが、ユダヤ人のはめったにない。
カーネギーエ科大とかメロソ、それにロックフェラーの名がついたものが多い。
だが印象としてはユダヤ人的な慣習のようにとれる。
こういう印象はユダヤ人が異常なほど慈善的であることの代償ではなく、パブリシ
ティに足るものを多く寄贈するために多くのパブリシティを得ているのだろう。
億万長者のユダヤ人は億万長者の異教徒よりも喜んで5万ドル寄付する。


 慈善は別の方法でも人間の虚栄心をくすぐる。
意識しているいないにかかわらず、大多数は大騒ぎやお世辞を言ってもらいたくて
寄付をする。
各機関の運営委員会はこの動機のおかげで存在していると言える。
機関を運営しているプロたちは、委員会による「共同体との橋渡し」なしにはユダ
ヤ人機関は存在し得ないと言いたがる。
だが社交界の俗物根性は随所で発揮される。
「誰もかれもがわれわれの委員会に入るよう指名されはしない」と思っている諸機
関が多い。
1900年以前にニューヨークのドイツ系ユダヤ人の金で建てられた病院は最高の
社会的地位の人しか運営委員になれないという評判をとっている。
年々そうではなくなってきており、シナイ山病院でも違ってきてはいるがこの評判
は依然生きており、諸機関が真に望んでいる人々……金持ちの友人を持った金持ち
をひきつける効果がある。


 ユダヤ人アピールの社会的権威はたいしたことはないが、大口寄付者の虚栄心を
くすぐるトリックを用いる。
その最たるものが海外視察団で、1万ドル以上の寄付者が「ユダヤ人アピールがや
っているすばらしい仕事」ぶりの視察にイスラエルに送りこまれる。
旅費は自前だが、同アピールが到着時に赤じゅうたん扱いをされるようにはからっ
てくれる。
男たち――特にその夫人連――にとってみれぱ1万ドルでアバ・イバン夫人イスラエル外相)
と握手できるなら安いものである。


 カード読みあげ晩餐会は恐れと同様、虚栄心にも訴えかける。
大口寄付申込み者は、とどのつまりは共同体からの尊敬で十分に報いられる。
だが性急な報酬を強要したがる者も多い。
寄付申込みに2,3の注釈を入れたがるのがそれである。
気前よく寄付できるわけを仲間に誇示するための注釈もある。
「もう500ドル出します。ナスバウムのような偉大なラビが演壇にいるから!」
年配者の場合は注釈が嵩じてユダヤ人アピールの必要性についての長広舌になっ
てしまうこともある。


 組織に勤労奉仕をする人々も、金銭を寄付する人々と同じように注意をひきた
がる。
ユダヤ人共同体で会長は必ず「委員会」の名前を読みあげる。
こういった確認は本題と同じくらいの長さで続く。
特に各人が立って拍手喝采を受けるような時には特に長くなる。
それでもこの儀式を省略する会長はI人もいない。数年前のある行事
で講演者――著名な外交官だった――の紹介の真っ最中に「ちょっと待っ
てください。われらの友ジェイク・バーツバウムがみえました。シェ
イク、立ってください。郵政委員会でのあなたの業績に拍手させて
ください!」
とやった。ジェイクが客の拍手を受けると、会長は「光栄にも氏の参
会を得まして……」


 慈善家たちの虚栄心にはもう一つ面白い面がある。
寄付者は大騒ぎをしてもらいたがるが、寄付金のために大騒ぎをして
もらっているのだとは信じたがらない。
自分という人間だけを愛してもらいたいのである。
そこで募金運動家たちはこの願望を満足させるのに四苦八苦して、金
銭にまつわる言いまわしの代わりに婉曲な言いまわしを案出した。
最も一般的なのが「教育」である。
ハダサ、ユダヤ人アピール、ニュ―ヨーク連合体、ユダヤ神学校の代
表は募金活動を「教育のための手段」と私に表現した。
もう一つおそれおおいほど効果的な婉曲話法がある。
著名な慈善家が演説中に考案したもので、金持ちの集会でやっているの
は募金運動ではなく「人対人の義務」だと言った(注1)


 ユダヤアメリカ人を慈善に走らせるのは共同体や圧力や社会的威信
以外にもまだある。
はかり難いものだが罪悪感も一役買っている。
単なる習慣も過小評価されがちである。
「1ドル手に入れるために喜んで10ドル使う」という人が、いったん
寄付に手をそめるとわれ知らずエスカレートしていくという理論につい
てジョセフ・ウィレンが語っている。
慈善寄付には連邦税が控除されることもある。
単に返礼の意味での寄付も多い。
この募金に1万ドル寄付してくれれば、そっちの募金に1万ドル寄付し
ようというわけである。
 

他にも要因はあろうが、不鮮明すぎたり個人的すぎたり不将であったり
で推測し難い。
しかしこのように金銭づくで私利私益的でけちな動機だけなのだろうか?
これらを一掃してしまうようなすばらしい動機はどうなってしまったのだ? 
ゼダカはどうなった? 
慈愛、仁愛の精神から慈善をするユダヤ人はいないのか?


 ほとんどの人がそうなのだと私は思う――他の動機が強く作用している
人だってそうだろう。
共同体の圧力はたしかに多くの人を刺激するだろう。
しかしある程度共同体の価値観を受け入れているからこそ、共同体に入る
ことを選んだのである。
慈善運動に寄付するのを会員資格とするカントリークラブも、ヨットを所
有したり社交界の名簿に名が載るような人しか入会させないカントリーク
ラブとは違った人生観を表現しているにすぎない。
これらの慈善行為に対して社会的反応を切望する人も、
反響がなくても同じように行動することが多い。
ある連合体の副議長が、パブリシティばかりおっかけて共同体中の笑い者
になった議長の話を聞かせてくれた。
人々が彼に言うのだそうである。
「アル、今日は新聞に載らなかったな」と。
当然、連合体の名声を守るためには彼も足を洗わざるを得なくていまでは
老人ホーム建設資金づくりに励んでいるが、パブリシティなしでも前と同
様、一生懸命に走りまわり、寄付も同じようにやっているという。


 いまでも慈善はユダヤ人の基本的本能の一部である。
 ユダヤ人の教育は幼児から始まる。
ユダヤ人家庭で育つた人なら食物を残した時にヨーロッパや中国やスラム
で飢えている人のことを思えと教えられたことを憶えていよう。
もちろん「残したものを食べたって飢えた人の足しにはならないのに……」
という疑問が頭をかすめる。
論理的にはおかしくても教訓は心に刻まれる。
「貧しい人がいたら何かをしてあげよ」


 そしてユダヤ宗教学校は右寄り左寄りに関係なくすべて同じ教訓を打ち出
している。
真正正統派のイエシバでは、子供たちはピューリム(北アフリカユダヤ
組織)にハーヌカーの金を寄付させられる。
改革派の日曜学校では、小遣いの一部をユネスコの児童資金に寄付させられ
る。
動機はまちまちでも原理は同じである。


 共同体の圧力や地位名声など意にも介さないユダヤ人青年の間でも同じ原
理が作用している。
正統派も改革派も保守派も青年部はすべて奉仕と福祉計画に参与している。
非宗教的な青年団体であるブネイ・ブリスやヒレルも同じである。
ユダヤ在郷軍人会員の子供は毎日曜に集まってベトナム向けの慰問袋をつ
くっている。
ラマ・キャンプの男女は地方共同体の奉仕計画を引き受けるよう義務づけられ
ており、精薄児や脳性小児マヒ児対象の困難な仕事までやっている。
 

ある金持ちの21歳になる息子がニューヨーク連合体の新指導部で働いている
理由を説明してくれた。
「誰かのために何かをしなければならないと突然思い立ったのです。両親はい
つも優しかった。それでぼくも他の人に対する責任があると感じたのです。こ
ういった仕事をするのはあまり楽ではありません――正直に告白すると、他の
人々を操縦するという挑戦はいい気分です。ぼくの動機はたしかに利己的だと
思います」。
この青年の責任感(そして自分の動機に対して定かでないもの)は非常にユダ
ヤ人的、ユダヤアメリカ人的のであるように私には思える。


 もちろん「私は匿名で寄付する!」と強く抗議する人も多い。
しかし、寄付しないユダヤ人共同体の人たちでも同じような本能は備えている。
例えば医者は寄付が少ないので有名である。
医者連中は自分の仕事こそ……診察室での無料奉仕こそ生命に対する真の慈善
行為だと言って寄付金の少なさを正当化している。
この理屈は甘すぎるが、他の理屈ではなくこれを使うところが医師もゼダカの
基本義務を受け入れていることを暗示している。


 同じ理屈がユダヤ人共同体内の小口寄付者にも適用できる。
ラビからはめったなことでは金を引きだせない。
仲間のユダヤ人に捧げるものをすでに捧げているという意識があるからだろう。
ヘブライ語の教師(他に与えるものがある人々)も同じである。
大学教授もそうで、特に公民権運動などに献身する教授は少ない。
さらにプロの募金運動家が最低だという強硬意見もあるがプロ側否定している。


 慈善体制の全装置は、ユダヤ人に刺激だけでなく、「避けがたい関心」を生
みだすことにもなっているとある募金家が言った。
たしかに良い面も多々あるだろうが、悪い面も多いように私には思えてならない。
その推進テクニックは大いに効果があるのだろうが、多くの若いユダヤアメリ
カの人に及ぼす結果のことはあまり考えられていないようである。
大多数は惑わされることはないだろう――父や祖父がしたように体制内に自分の
場所を見出していく親切な平凡人だから。
だが恐れと不快の全体系を嫌い、おきまりのカード読みあげ儀式を観察して、ユ
ダヤ人のアメリカでの生活は密売と俗悪そのものだと結論を下している知識人や
理想家の少数派もいるのである。


 プロたちは反対論を無視している。
「大人になれば反抗をやめるだろう。私たちも昔はそうだった。彼らだって同じ
さ」
そうかもしれない。
今日の反抗者は明日の順応者になりやすい。
だが反抗心が消えても、嫌悪感を消さない人はいつの世にもいるものである。
そしてほかで自分の慈善心を満足させようとする。


 気配はすでにある。
1969年のユダヤ人連合委員会・救済基金の年次総会で、連合体委員会に少数
だが30代の人が参加していることを数紙が指摘した。
どうすればユダヤ人の慈善に若者の興味をひきつけられるかが論じられたが、真
実にあえて対面しようとした新聞はなかった。
ユダヤ人の慈善がただ一つの規準できるだけ――多額の金を集める――によって
いる限り、家計に余裕のない共同体構成員や若者、知識人や真に宗教心のある人
たちが入りこむ余地はない。
大口寄付者だけを尊重している限り、そうでない人々を遠ざけてしまう。
慈善体制はこの難問を直視して、単にテクニック上のこととしてでなく価値観の
危機として対処しなければ、一世代か二世代のうちに問題は深刻化しよう。


 楽観していてはいけない。
多くの組織と同様、慈善体制も己れの機構の犠牲になろうとしている。
「向上」病にとりつかれている。どの連合体も去年より今年さらに来年と前年実
績を上まわる目標をかかげてそれを達成しようとしている――それしか正当な存
在理由がみつからないのである。
摩天楼に上がれば必ず降りなければならない。
慈善体制(小さな町の小さな連合体から強大なユダヤ人アピールにいたるまで)
はまっしぐらにのぼっている最中である。


*特記していない限り、調達資金、支出などに関する数字はすべてユダヤ人連合
・救済基金協議会から提供されたものである。


注1 1966年4月17日、改革派ユダヤ人アピールの年次賞授与晩餐会での
Max Fischerの講演より。