創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(720)『アメリカのユダヤ人』を読む(6)


訳文をお読みになっていて、訳に手をいれたな---とお感じになる箇所がところどころあるとおもう。
いや、たいていの新聞記事や雑誌などのマスコミの表記がそうなってきているので、追随したのだが。


そう、「ユダヤ系」という表記は、訳出した1972年前後にはほとんど見かけなかった。それが、公民権運動の高まりを経て、アフリカ系アメリカ人とか、アジア系とかと表記されるようになった。


いま訳出すれば本の題名も『ユダヤアメリカ人』としたかもしれない。


で、OCR化のチェックの段階で、前後の按配で「ユダヤアメリカ人」としているところがある。


ユダヤ教徒」というのは、ラビ立会いのいろんな儀式を経てユダヤ教に改信し、シナゴーグ(会堂)を中心とするコミュニティに参加している人たちの意である。


ユダヤ人」は、ユダヤ教徒である母胎から生まれた人のことを指す。





拙訳『The American Jews 邦題:アメリカのユダヤ人』―――から(5)



建  設


古来の敵 昨日のつづき


 キリスト教の新姿勢には頼もしいものがあるが、なかでも見ものはカソ
リックの参与であろう。
参与は法王ヨハネによって始められ、法王パウロユダヤ人に関する有名
な声明で最高の承認を得、バチカン二世が数年がかりで苦労して練りあげ
た。
声明は次のような宣言であった。
「キリストに起こったことは、当時あるいは現在のユダヤ人全員によるも
のではない………ユダヤ人を神により拒絶されたもの、呪われたものとし
てはならない………教会は………時と人を問わず、ユダヤ人に対しての憎
悪、迫害、反ユダヤ主義の表明を嘆く」


 バチカンニ世に与えたユダヤ教の影響については多くのことが書かれて
いる。
反対リーグやユダヤ人委員会がいかにして院外団をローマに送りこんだか、
ボストンのカッシング枢機卿がいかにして法王と協力してユダヤ教神学セ
ミナーのヘスチェル・ラビのために聴衆を用意したか、プローデオ大学に
大金を寄付したばかりのある百万長者夫人に聴衆がどんな反応を示したか、
ゴールドバーグ国連大使に聴衆がどんな反応を示したか、声明がついに発
表された時、タネンバウム・ラビがバチカンに残った唯一のユダヤ人だっ
たのはなぜか……等々である。
とてもいい話で神学上のジェイムズ・ボンド物語といったところである。
これからも様々な訳本で何度も何度も語りつがれていくことだろう。


 こういった院外団が実際にどんな効果をあげたかを局外者――あるいは
内部事情に明るい人でも――がはかるのは不可能だろう。
厳密な無干渉主義を提案していた正統派ラビ団によると、有害だったとい
うことになる。
ユダヤ人会議は院外団が文書で提出していたらもっと効果があっただろう
が自ら動いたので目立たなくしてしまったという。
そして、バチカンの声明が十分強力なものかどうかに関する論争はいまも
って続いている。
最初の草稿には「嘆く」という単語のあとに「非難」という言葉が続いて
いた。
この修正は、最終声明が弱められたことを示すものではないだろうか?


 この論争をすべて理解するには、他のキリスト教徒に対するよりもはる
かに複雑な態度を示すアメリカのユダヤ人のカソリック教徒に対する態度
を理解しなれればならない。
これも矛盾した二様の感情をあわせ持つことができる能力の一例にほかな
らない。


 一方ではユダヤ人の多くは反カソリックである。
そして反カソリックを幾多の方法で正当化している。堕胎、離婚改正案、
産児制限、教会と州政治との分離などの重要な問題でカソリックと意見対
立をしているし、政治力でその見解をほかの者にも押しつけるカソリック
教会側のやり方にも反撥している。
例えばカソリック教徒は産児制限を禁じられているだけでなく、カソリッ
クの影響の強いコネチカット州では避妊薬についての情報を与えるだけで
違法となる。
検閲に関するカソリックの見解は特に不快なものである。
読んではならない本のリストを想像してみるがいい!


 神学上のことでもカソリックの考えはユダヤ人とは相いれない。カソリ
ック教徒はひざまずき十字を切り絵に向かって祈りロザリオを用いる。
宗教に対して厳正な姿勢をとるユダヤ教徒にとって、これは偶像崇拝その
ものであって第二戒にそむくことにほかならない。
迷信的な行為でさえある。
悪運を避けるため一日10回木をたたく(幸運を呼ぶための迷信)かもしれな
いとしてもユダヤ人が迷信以上に軽蔑するものはない。


 実践的な段階でもユダヤ教徒カソリック教徒のアメリカでの利害はし
ばしば衝突してきた。
両者とも都会的で北東部に集中している。
カソリック系移民の最大波は、ユダヤ系移民波よりもわずかに早かった。
だからユダヤ人はカソリック教徒にはばまれることが多かった。
ローアー・イーストサイドの民主党は、ユダヤ人が到着した時にはカソリ
ック教徒が牛耳っていて政治権力を新参者にゆだねることを望まなかった。
この闘争は今日にいたるまでタマニー・ホールで続けられている。数年前
もサソフオード・ガーレリックが最初のユダヤ人としてニューヨーク警察
の主任検査官に任命されると、この仕事は自分たちの所有であり続けるべ
きだと感じたアイルランド系警官からわめき声があがった。
この反動はユダヤ人がカソリック教徒に愛情を感じるようなものではなか
った。
今日ではカソリック教徒もユダヤ人も大多数が郊外へ移住しており、互い
に感情を害し合っている。


 ユダヤ人は、カソリック教徒が他のキリスト教徒よりも反ユダヤ主義
という確信を持つにいたっている。
1930年代のアメリカの反ユダヤ主義者中で最も有名なのがカフリン神
父であったのも不運である。
40歳以上のニューヨークのユダヤ人にとって最初の反ユダヤ主義の記憶
は、ニューヨーク市中に出まわったカフリンの雑誌『ソシャル・ジャステ
ィス』に群がる初老のアイルランド系の婦人達にまつわっている。
広告にはユダヤ人に向けられた淫らな言葉がいつも使われていた。
同様な思い出を背負っているユダヤ人はカソリック教徒のあいまいな行動
にも時々まごつく。
例えばパウロ法王はアメリカでの善意巡礼時に神学校の一生徒が「ユダヤ
人を恐れてともに集う」という句をテレピ放送で読むのをなぜ許したのだ
ろうと。


 しかしカソリック教徒の反ユダヤ主義に対するユダヤ人の信念にも不合
理な面がある。
どんな反証であってもユダヤ人は固執を止めない。
例えばほとんどの専門家が認めているように、プロテスタントの反ユダヤ
主義は宗教上の性格だけでなく社会的性格のためカソリックの反ユダヤ
義よりもはるかに流布しているのだが、私が会ったユダヤ人は信じようと
はしない。
あるユダヤ教指導者の調査によると、反ユダヤ主義は教区付属学校では他
の学校よりも強いということである。
彼の言葉はこうだった。
「つまり彼らがいかに偽善的であるかということである! 彼らが言って
いるように行動するならば、彼らの学校ではもっと反ユダヤ主義が減って
もいいはずである!」


 こういった倒錯理論は、多くのユダヤ人が理論よりもはるかに深い反カ
ソリック感情を持っていることを示すものである。I・B・シンガーは子
供のころ道で尼とすれ違うたぴに感じた不安の苦痛について書いている(注1
この刺すような痛みの経験のないユダヤ人はほとんどいまい。
アメリカ生まれでシンガーよりもはるかに若いブルース・ジェイ・フリー
ドマンは向かいにあったカソリック系の学校が少年時代「戦場――謎めい
た恐ろしい場所」に見えたという。
とはいえ彼は一度もカソリックの少年と喧嘩することはなかった――実際
には何も起こってはいなかったのである。


 こういった不合理な感情の根底にあるのは、ほとんどのユダヤ人にとって
カソリック教徒は「真の」キリスト教徒であるという考えだと思われる。
プロテスタントよりもよく教会へ行く。
祈りも多い――入念な仕草で大声で祈る。
彼らは「そういったことを本当に信じている」がゆえに、ずっと高い危険性
を秘めているというわけである。


 だからこそユダヤ人は反カソリックなのである――しかもカソリックびい
きでもある。
ユダヤ人自身がそうであるようにカソリック教徒もまた最少数派宗教グルー
プの一員、偏見の犠牲者でもあるので一種の仲間意識もある。
アメリカの反カソリック運動は反ユダヤ主義でもあることが多かった。
クークルックス・クラン(KKK)が南部だけでなく、ニューイングランド
や中西部でも活動していた1920年代では、カソリック教徒もユダヤ教徒
も無差別に襲った。
多くのユダヤ人が今日も感じているきずながこの時結ばれたのだった。


 政治キャンペーンにおける反カソリック宣伝の爆発は常にユダヤ人の選挙
投票にはね返ってきた。
19世紀のアル・スミスの圧倒的な支援を受けた不知党(1853〜56年に盛んだった秘密結社で、
アメリカ生まれの市民以外の者を締め出そうとして、党員はつねに党に関して無知を装った
ユダヤ人は反対したし、ジョン・ケネディーにはユダヤ人票の88%を与
えて「カソリック候補」でないことを立証した(カソリック教徒は81%し
ケネディに投票しなかった)。
そしてボルチモアやボストンのようなカソリック都市では、ユダヤ人は常に
政治や信仰権力機構とうまくやっていくことができた。
年配のボルチモア市民はギボンズ枢機卿と先任ラビが共に市を牛耳っていた
時代をいまも憶えていよう。こういった友好関係は彼らがいかなる映画、演
劇を大衆に見せるべきか、教育委員会にはいかなる人物を指名すべきかなど、
一般大衆のモラルに関する決定を行なっている間は手をたずさえて歩くこと
が多かった。


 こういった状況下では、バチカンニ世に対するユダヤ教徒の反応が愛憎両
立するものであったとしても驚くにはあたらない。
カソリック教徒がロにしているとおりのことを意味しているのではないこと
は誰にもわかっていた。とはいえ本気でないことがわかると誰しも衝撃を覚え
たろう。
「法王が命じているのだから、変わりはすまい。法王が金曜日に肉を食べて
もいいと言ったら、彼らはすぐにもそうする――でも反ユダヤ主義を捨ては
すまいが」
と私に言った人が「他の異教徒よりもカソリック教徒とのほうがうまくやっ
ていける。だって同じ言葉を話すのだから」と言うのだった。
 これが同一人物の発言なのだからおかしな話である。


 ほとんどの専門家は、反ユダヤ主義は目下ぐらついていると言う。 
しばらく下火になったのだと考える専門家は1人もいない。
どんな統計もそのことを物語る。
大学の入学定員割当法などほとんど過去の遺物となってしまっている。全大
学の10%がユダヤ系学生である。
有名大学教授団の15〜20%がユダヤ系である。
そしてアングロサクソンの素養のある者だけが英文学を真に理解できるとい
って反ユダヤ主義の要塞であった英文学部にさえもユダヤ系がいる。
 東部大学(エール、ハーバード、プリンストン、コロンビア、ダートマス、コーネル、
ペンシルベニアブラウン大学)での統計はもっと
目を見はるべきものである。
エール大学生の18%が、ハーバード大学生の25%がユダヤ系、コロンビ
ア大学では40%、そして1941年にはユダヤ系割当がわずかに2%に満
たなかったプリンストン大学でもいまや15%がユダヤ系学生がキャンパス
で二等市民権に属するといった事実もない。
高い地位を与えられているに違いない。
過去10年間のエール大学新聞の編集者のほとんどがユダヤ人であった(こ
の大学新聞の最初のユダヤ人編集長は、発行者ウィリアム・パックレーに指
名されたものである)。
ユダヤ系に支配されたハーバード大学の教授会は、資格のある非ユダヤ人を
雇うために努力を払っているほどである。
数年前ブラウン大学では、ユダヤ人大学新聞編集長が非ユダヤ人を激励し偏
見にあうことはないと説いた社説を載せもした。


 かつてユダヤ系がなかなかはいりこめなかった医学部も新機運に屈服した。
1948年にはニューヨーク州の医科学生の10〜15%がユダヤ系であっ
た。
1954年には50%にも増えた――なかには80%の高率を誇る学校もあ
る。
制限的な求人広告はほとんどの州でいまや違法とされている。
銀行業、公益事業、大企業など以前全面的に制限されていた産業界でもユダ
ヤ系に門戸が開かれている。
ウォール街の法律事務所でも大幅にユダヤ系を雇い始め、ユダヤ人を共同経
営者に指名して刺激を与えている。


 どんなに状況が変わってもほとんど機会はないとみられていた他の分野で
も、ユダヤ人に門戸が開かれている。ブ
ルーノ・ウォルターは戦前はユダヤ人ゆえに永久的なオーケストラ契約をと
ることができなかった。
サージ・クーセビッキー、ユージン・オーマネンディ、ピエール・モントー
といったユダヤ人たちもシンフォニー界のトップに達するためにはキリスト
教に改宗しなければならなかった。
戦後レオナード・バーンスタインが関門を破り、今日では多くの指揮者――
最も名の知れた人だけでも、ジョージ・セル、エリック・ランドスドルフなど
――がユダヤ系である。


 いうまでもなく人目に立った反ユダヤ主義はほとんど生き続けることはでき
ない。
ロックウェルのアメリカ・ナチ党には数百人の会員がいた。
ジェラード・スミスはいまも自分の雑誌を配っているが、購読者のほとんどが
過去に生きる老人である。
反ユダヤ主義で名をはせた都市もおとなしく寛容になってから久しい。
かつて反ユダヤ主義の本陣として知られたミネアポリスは1940年代半ばヒ
ューバート・ハンフリー市長によって改革されてしまった。
イスラエル建国後の数年間、アラブ連合は右翼の反ユダヤ主義的グループに資
金を渡していたが、割りがあわないと悟ってやめてしまった。


 社会的な反ユダヤ主義の撲滅は困難だが、あちこちで進展をみせている。
ユダヤ系フラターニテイも現存しているが会員交換が盛んである。
ユダヤ人のほうが異教徒を入れたり逆であったりである。
エール大学では入会制限のある学生クラブもユダヤ人には開放されている。
最近、最も権威ある『頭蓋骨と骸骨クラブ』からの招待を3人のユダヤ系学生
が拒否したこともある。
昔からユダヤ人を閉め出していたカントリークラブやビジネスマンクラブも制
限をゆるめている。
最近のユダヤ人委員会は舞台裏工作のほとんどをこの計画に費やしている――
クラプから除外されているユダヤ人は、必然的にビジネス・チャンスからも除
外されているという基盤に立って、こういったクラブから受けた昼食会やゴル
フ会の個人的招待を辞退するなとか、会員が属している団体の公式行事をその
種の場所で開かないことに全力をあげよと命じている。
例えばユダヤ人委員会の会員が主導権を握っているカンザス市バー協会は、例
年会場にしていた制限クラブでの年次晩餐会を中止してしまった――その結果、
このクラブもいまは開放されている。1960年には大学のクラブでユダヤ
を受け入れるクラブは28クラブの中で2つしかなかった。
1965年までに7つのクラブがユダヤ人を受け入れており、1クラブが目下
受け入れ準備中、そして5クラブがユダヤ人委員会と討議中といった調子であ
る。


 そしてユダヤ人委員会は、早々と制限を解除したクラブが劣等感を感じる必
要はないと注釈を加えている。
クリーブランド・アモリーが「名士録・紳士録的見地からアメリカで最も著名」(注2
と折り紙をつけたニューヨークのセッチュリークラブでも数年来ユダヤ人が名
を連ねているのだからと。


 不動産業界でも紳士協定は破られっつある。
いまだにユダヤ人には家を売らない郡区もあり、ニュ−ヨークにもユダヤ人に
は売らないマンションもあるが、そういった所を見つけるのは以前よりもむず
かしくなっている。
戦後郊外が急激に発展したのが主な理由である。
ユダヤ人も郊外移住に一役買った。
異教徒と同時に新しい地区へ移住していき、異教徒と並んで家を買った。
大体最初からそろって隣組をつくり、ともに最初の郊外社会生活を開始した。
多くの郊外地区ではこの習慣がいまだに残っている。


 とはいえ、専門家は3番目の歓呼の声をあげようともしなければ勝利の鐘を
鳴らしもしない。
治っていない傷がまだあるのである。
本当に価値ある産業界――影響力の強い産業――へのユダヤ人の参加は非常に
少ない。
例えばアメリカの50銀行中わずか5行にしかユダヤ人の上級幹部がいない。
しかも4行にはユダヤ人は一人ずつしかいない。


 社交クラブの差別は減りつつあるといってもまだ広く行き渡っている。
1962年の調査によると、こういったクラブの67%は宗教差別を行なっ
ている(注3
ユーオーリンズのマーデイ・グラス・クラブは、創立者ユダヤ教徒であるに
もかかわらずユダヤ人を閉めだしている。
クリーブランドでは2大ビジネスマンクラブがユダヤ人を受け入れようとし
ない。
この中の1クラブのキリスト教徒会員はつい最近までユダヤ人ゲストを招くこ
ともできなかった。
サウスカロライナのある小都市のカントリークラプは戦後ユダヤ人を入れはじ
めたが、ユダヤ人の両親が死去している場合に限るという条件つきである。
なまりの強い老人にウロウロされたくなかったのである。


 カントリークラブがユダヤ人に開放されている町でも古い社会的亀裂が残っ
ていることもある。
ユダヤ教徒と異教徒が自由に交際しているガルペストンやダラスのような都市
を1とすると、有名な「午後6時の影」がいまだに残るシカゴやノーフォーク
カンザスシチーのような町が何十とある割合なのである。
六時までは商用でもご婦人連の午後のパーティでも井戸端会議でもユダヤ教徒
と異教徒が一緒に会うことが許されるが、6時以後は別々に集まるのである。
ユダヤ教徒ユダヤ人家庭が3世帯以上ない通りはないと誇るアナーバーのよ
うな町でもそうである。


 ニューヨークは唯一の例外である。
ここではユダヤ人は異教徒と好きなだけつきあうことができるし、一人でいる
こともできる。
リピーのライ麦パンの「リピーのパンを食べるのにユダヤ人にならなきゃいけ
ないって法はありません」というポスターが、この市以外のユダヤ人が見たら
びっくりするほど地下鉄のいたるところに貼られている。


しかしアメリカには、ニューヨーク・タイプのユダヤ人と他地区タイプのユダヤ人の
2種類があるとよく言われる。


 差別待遇は目にみえて少なくなってきてはいるが、どの程度の反ユダヤ主義
感情が残っているかは明らかではない。
依然として古い病源が血管を流れている徴候はある。
法律事務所はユダヤ人を雇ってはいるが、エールの法学部の調査によると、そ
れも首席クラスの人だけだということである。
中程度のユダヤ人は同程度の異教徒と比べてかなり不利な立場にある(注4)。
大学の場合も同じことが言える。
ユダヤ人委員会の調査はユダヤ人高校生が東部大学を希望すれば、非ユダヤ
生徒よりも適性検査ではるかに良い成績を獲得しなければならない。
ユダヤ人生徒の平均点は675点、非ユダヤ人生徒は625点である(注5)。


 ユダヤ人についての古い迷信的な無知も残っている。
最近ミシガン州メソジスト教会で講演した若いラビは、ある婦人からユダヤ
人がどうやって血からマッツォス(パン種抜きのパン)を作るのか質問
されたという。
また南部の婦人はラビに電話して、いけにえを捧げている時に彼女の日曜学校
の生徒に会堂参観させてもよいかと聞いてきたという。


 古く思慮のない悪意も時々現われる。「カイク」や「イド」ユダヤ野郎)のような言葉が
まだ10代のユダヤ人にさえ意味不明の言葉とはなっていない。
ノーフォークの浜辺
にはいまだに「異教徒専用」という看板がいたるところに立っている。
ニュージャージーの青年共和党員の集団ラット・フィンクスは集会の際反ユダ
ヤ歌を歌う。
会堂にかぎ十字章を貼られるという事件が毎年いたるところで起きる。
犯人を捕えてみても特定の組織に属しているということはない。
たいていが中産階級の大学生で憎しみの自然的爆発の結果の蛮行であることが
多い。


 ジョン・バーチ協会はこのパターンをはっきりとっている。
公式には反ユダヤ主義ではないが、典型的な中産階級反ユダヤ主義者とか欲求
不満の銀行員とか小企業主といった手合いをひきつける。
集会の前に党員は反ユダヤ主義的発言を交換しあう。
集会中には反ユダヤ主義的なところはみじんも見せないが、集会が終わるやい
なや再び反ユダヤ主義的発言を再開するといった具合である。


 現状で最も危険なのは、反ユダヤ主義的行為を目にしても多くのアメリカ人
にはそれを認知する意思がないか認知力がないということだろう。
ニュージャージー州ウェインという町で、1967年にニュートン・ミラーと
いう教育委員が顔見知りの町民にユダヤ人委員に反対投票するよう強要したこ
とがあった。
大騒ぎになりミラーはユダヤ人の「感情を害した」と謝罪した。
しかし自分の発言の変更や撤回は拒否した。
ユダヤ人委員たちが彼の謝罪を受け入れようとしなかったとしても当然のこと
と人は思うだろう。
ところが選挙民の見方は違った。
ニュートンキリスト教徒的行為をした時つむじ曲りが友情の手をひるがえ
した」と、町民は圧倒的にユダヤ人候補の反対派に投票した。


 この理由づけは度はずれにひねくれている。
いったいアメリカではどのくらいの人がニュージャージーのウェイン町民のよ
うに盲目的で冷淡なのかとユダヤ人は問わずにはいられないだろう。
明日にも不況が訪れたらどうしよう……ヒトラーのような人物が現われたら…
…。


 こういったことを考えると、反ユダヤ主義ユダヤ人自身に与えた影響を考
えざるを得ない。いまこそ傷跡を調べてみるべきである。


註1  "The Extreme Jews," Harper's, April, 1967.
2   Quoted in an AJC pamphlet, The Unequal Treatment of Equals, by John Slawson and Lawrence Bloomgarden.
3   From a 1962 survey cited by John P. Roche, The Quest for the Dream, New York, The Macmillan Company, 1963.
4   John Young, "The Jewish Law Student and New York Jobs: Discriminatory Effects in Law Firm Hiring Practices," Yale    Law Journal, March, 1964.
5   Lawrence Bloomgarden, "Our Changing Elite Colleges," Commentary, February, 1960.


この項、完






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