(715)『アメリカのユダヤ人』を読む(1)
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米国の人口比では3%前後のユダヤ系アメリカ人ですが、ニューヨーク市のマジソン街(広告界)では50%近く、『ニューヨーク・タイムズ』が『ジューヨーク・タイムズ』と揶揄されるごとくにマスコミ界にも著名の士が多く、学会でも分野によっては40%を占め、映画・演劇・音楽・芸能分野でも目立ち、ファッションや出版の世界で主要な地位を占め、最近ではIT業界でもビル・ゲイツ氏やfacebookのマーク・ザッカーバーグといった話題の人物を出しています。
そのユダヤ系アメリカ人に焦点をあて、『The American Jews 邦題:アメリカのユダヤ人』を1968年にまとめたのが、自身もユダヤ系アメリカ人であるジェイムズ・ヤッフェ氏です。
縁あって訳出、1972年に日本経済新聞社から上梓。数年間は春になると増刷されていましたが、いまは絶版。読みたいという各界の友人たちの声に励まされ、GW中のブログに分載することにしました。
20項のうち、GW中には5項か6項しかこなせません。残りは年内の毎日曜日に分載を続行する予定です(健康であるかぎり。テストでは半項のアップ準備に6時間を要しています)。
拙訳『The American Jews 邦題:アメリカのユダヤ人』―――から(1)
本書の題名を見た日本の読者は、ユダヤ系のアメリカ人の習慣や態度と自分が、どう関係あるのか、自問するだろう。私自身、本書が日本で訳行されると聞いた時、「日本人とユダヤ系アメリカ人の間には何か共通のものがあるのか。例えば、ユダヤ系アメリカ人が日本人に近いと特に感じるなんらかの意識があるのか」といった疑問がうかんだ。このことについて考えてみたが、われながら驚いたことに、両者の間には相通ずるものがあるという結論を得た。
戦前のユダヤ系アメリカ人の日本への関心は、実のところ第二次大戦の末までなかった。戦前のユダヤ系アメリカ人は不況との戦いやその東欧的背景と妥協をするのに余念がなかった。戦時中は、愛国心の強いアメリカ人だった……そしてさらに彼らは日本に対する感情と、仲間のユダヤ人が組織的に虐殺されていたドイツに対する感情とを切り離すことができなかった。しかし、戦争が終わると、彼らのはげしい憤りは早々と消滅した。戦後、ユダヤ系アメリカ人は高度に洗練され、国際的な意識の持ち主になってきた。彼らには、アメリカに入ってきはじめたいろいろな形の日本文化を熱意をもって受け入れる態勢ができていた。
彼らは、他の多くのアメリカ人以上の熱心さでそれらを受け入れた。ユダヤ人は革新的文化を非常に受け入れやすいという理由によるものである。歌舞伎が初めてニューヨークで上演された時、観客の大多数を占めたのは疑いもなくユダヤ系であり、その比率は、市人口の民族比よりもずっと大きかった。アメリカで初めて上映された日本映画……「羅生門」「雨月物語」「地獄門」……は、天啓のような力をもって、アメリカの映画狂(その大多数がユダヤ系であるが)を襲った。年配の裕福なユダヤ系の間で、東京や京都を訪れることが、パリやロンドンを訪ねることと同じように流行となった。
ユダヤ系の新しい態度の兆候は、約15年前、ブロードウェイの成功劇「一票差の過半数」という形で現われた。それは、日本人の男やもめと、その優しい心をポートノイ夫人の毒牙と交換するまでは典型的なユダヤ人の母親であった罪のないあまり教育もないユダヤ人未亡人との間の中年の恋愛事件を扱ったものである。その劇は文学的傑作ではなかったし、二民族の描写は、疑いもなく浅薄で感傷的なものであったが、その人気の高さは意味深いことであった。もしこの男やもめがインド人やアフリカ人や中国人だったら、観客(多くのブロードウェイの劇場と同じくユダヤ人であった)は、その劇が暖かみのある、感動的で真実性のあるものだとは、ほとんど思わなかっただろうと、私は確信する。「一票差の過半数」はアメリカのユダヤ系人が日本人について特別に魅かれると思っている何かがあることを証明しているようである。
この牽きつける力は一体どこからくるものだろう? おそらく、私たちユダヤ系アメリカ人が日本人を、近代的、現代的、科学的技術を好み、なおかつ古くから宗教に対して献身的で、両親や祖父母を尊び、伝統を壊すことを嫌うと同様に、能率的、勤勉、実際的でなおかつ知的で芸術的であると見ているということだろう。つまり、私たちは、日本人の中に過去から現在を通じて同じ精神、「外の」世界に対する魅力と興奮、「彼らのものである」世界の安全性と威厳を見出しているのである。そして、それらは私たちが私たち自身においても見出しているものである。だからこそ私たちは、理論的に明確な定義はできないのだが、ある観点からすれば日本人はユダヤ人なのだ、と感じているのかもしれない。
日本人は本当にそうなのか? 私はその質問に答えることができない。ただ、私はそうであることを望むのみである。そうなれば、日本人とユダヤ人は相互に影響しあうことになるだろうし、このユダヤ系アメリカ人の生活を詳しく描いた物語を通読する日本の読者は、行間のどこかにあなた自身を、また、あなた自身の生活を見出すだろうから。
ジエイムズ・ヤフェ
もともと広告コピーライターである私が、なぜ本書の訳出に取り組んだかを説明するのは、ちょっとむずかしい。はしょっていうとそれには二つの筋道がある。
一つは、10年前に私は『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』(1966.06.15)をまとめたが、そこに展開されているユーモラスな広告コピーのレトリックに魅かれた。それがコピーライターの個人的資質に属するものなのか、あるいはユダヤ人である彼ら(ライターは複数である)の伝統によるものか思案した。
5、6回渡米して彼らをインタビューした結果、後者であることがわかった。彼らは子供の時からユダヤ的ユーモアに包まれて育ったのである。しかもそのユーモアはタルムドに由来する。
私はいつかユダヤ系アメリカ人を調べてみようと心に決めた。
もう一つは、数回の渡米で100人近いユダヤ系の広告人と親しくなったことである。広告界もユダヤ系に開かれている大きな職場である。その一人であるドイツ系改革派のパーカー夫人は、私をユダヤ料理店に連れて行ってくれたり、「エンジョイ。エンジョイ」というユダヤ人の生き方を説明してくれたり、黒い帽子と黒いガウンを着て46丁目に立っている男たちを真正正統派のユダヤ教徒だと教えてくれたりもした。
また、ロングアイランドに住むトウビン夫妻は私を自宅に招いて清浄家庭料理の夕食会を開いてくれた。ローゼンフェルド氏は私のことを「ユダヤ人のことがわかる唯一の日本人コピーライター」と冗談をいった。
こんな経験もした。ギルバート夫妻とカーニット夫妻(いずれも広告代理店の社長)を別々にわが家に招いて寿司パーティを開いたとき、ギルバート夫妻は喜んで食べてくれたが、カーニット夫妻は貝やえびを食べなかった。私は二組の夫婦の行動の差を知りたいと思った。
こうした二様の興味から、私は本書を読むことになった。若干の解答が本書の中にあればと思ったのである。期待はほぼ達することができた。
ただ、宗教史もヘブライ語も知らない私には、困難な仕事になった。日本にいる唯一人のユダヤ教ラビ、M・トケイヤー師の教えが得られなかったら本書の訳出は不可能だったろう。数度にわたる質問にいつも快く答えてくれたラビに感謝する。ラビの態度から私はユダヤ教のゼダカ(慈善)の片りんを知ることができた。
また、訳出にあたってよく協力してくれた私のかつての秘書栗原純子夫人と現在の秘書榊原節子嬢に大いなる謝意を述べる。二人の協力がなかったら本書はありえなかったろう。
ただ一つ気がかりなのは、本書が完訳にならなかったことである。完訳してみたら膨大な分量になり、日本人には興味の薄い部分も見受けられたので「子供をわれらに」「地方人と世界人」「権力争い」の章は抄訳にせざるを得なかった。本書がもし非難を受けるとしたらすべては私の判断の甘さにあるのであって、原著者ヤフェ氏のせいではない。
原著者ヤフェ氏は、1927年にシカゴで生まれ、エール大学文学部を卒業した。在学中より創作活動に専念し、多くの小説、テレビドラマを書いている。この『アメリカのユダヤ人』は、彼のただ一つのノン・フイクションである。
ちなみに原書は1968年に刊行されており、当時、「手加減を加えるような本ではなく、心を奪われるような本だ」(パブリッシャーズ・ウイークリー)、「今日のアメリカのユダヤ人の業績および失敗、礼儀作法、アメリカおよびユダヤ人共同体に対する順応あるいは反応などを詳しく述べた傑作」(アメリカン・ニューズ・オブ・ブックス)、「辛辣でありながらも同情心を失っていない、巧妙な作品」(サタデー・レビュー)、「一民族の発展と宗教的多元性社会にとけこもうとする戦いを明晰に洞察した読みごたえのある本」(ジャビッツ上院議員)、「初めてあるがままに書かれたすばらしい真のドキュメンタリー」(シェロー・ワイドマン)といった評価を受けている。
本書がユダヤ系アメリカ人と接することの多い各界の学者、ジャーナリスト、商社マン、広告人、ショービジネス界、教育界、法曹界、医学界、文学界、芸術界の方々の参考になれば幸いである。
昭和47(1972)年4月
chuukyuu
追記:いまなら、各界に、IT業界を加えるべきであろう。
ユダヤ系アメリカ人の今日の生活は、最も輝かしく楽観
的な段階にあるといわれているようである。
闘争と挫折は終わり、ようやく発見したくつろげる社会に自分を順応
させている。
だが、彼らを「疎外されている民族」と見る見方も一方で浸透してい
る。事実、現代アメリカ文学ではユダヤ人は疎外された現代人の象徴
として書かれることが多い。
本書ではこの、パラドックスを明らかにするとともに、それがユダヤ
系アメリカ人の内部の深い矛盾に起因することを立証してみたい。
また、彼らの生活を多面的に調べて、矛盾のよってきたるゆえん、ユ
ダヤ人共同体および個々のユダヤ系に与えている影響、ユダヤ系はは
たしてユダヤ人共同体を受け入れているのか拒否しているのかといっ
たことも書いてみたい。
最後に、これらの矛盾がユダヤ系アメリカ人を導いていっている方向―
―不幸へか、栄光へか、単に忘却へか――を見てみるつもりである。
この試みの背後にあるのは、今日ユダヤ人が辿っている方向は特異なも
のではないという信念である。
キリスト教徒、アメリカ人、西洋世界のすべての人が同様の闘争を行な
っている。
ただし、それぞれの方法で……ユダヤ系アメリカ人は特に独自の方法で。
ユダヤ系アメリカ人の生活は、多くの複雑な歴史的現象と同じく一見単純
な形で始まった。
最初のユダヤ人の一団は、1654年に他の移住者たちといっしょにニュ
ーアムステルダム(ニューヨーク市の前身)に上陸した。
この時の23人がニューヨークの西70丁目に現存する会衆シェエイリッ
ト・イスラエルを組織した。
それ以後の植民地時代の100年間、ユダヤ人はスペイン、ポルトガル、
オランダや西欧各地から小集団にわかれてやってきた。
スペイン、ポルトガル系ユダヤ人(他のユダヤ人と異なる古代からの礼拝形
式を持っている)を移民波と呼ぶこともあるが、初期移住者にはほとんどス
ペイン、ポルトガル系ユダヤ人はいなかった。彼らはニューヨーク、ペンシ
ルベニア、メリーランドなどに定着した。そこは宗教的にも政治的にも寛容
な環境であった。
チャールストン、サバナ、モービルなど南部に定着した者もいた。
ジョージア州で最初に生まれた白人の子はユダヤ人である。
ニューイングランドに定着しようとした者もあったが、清教徒は主義として
自分たち以外の宗教グループを拒否し、商売上の競争相手が存在することに
も激しい妨害を企てた。
「移民波」は波と呼べるほどの規模のものではなかった。
初期に移住してきたユダヤ人は個人個人で漂うだけで緊密な共同体をつくろう
とはしなかった。
独立戦争(1775〜83)の時には3,000人のユダヤ人がいたにすぎなかった。
1840年代後半にユダヤ人移民第二波が始まった。
通称ドイツ系移民と呼ばれているが、オーストリア、ハンガリー、ボヘミアや
北イタリアからもやってきた。
1848年以降、ヨーロッパ全域に反ユダヤ主義(アンチセミティズム)の復
活を促した保守主義から逃れるためであった。
このドイツ系ユダヤ人の多くは行商人となった。
競争に負けないですむ土地を捜して常に移動しなければならなかった彼らの姿
は全米のいたるところでよく見られた。
ニューイングランドヘ行ったドイツ系ユダヤ人もいたが、一世紀前の連中と同
様、定着できなかった。
すでに確立していたヤンキーとじゃがいも飢饉で一足先にアメリカヘ渡ってい
たアイルランド系移民の板ばさみにあったからである。
ユダヤ人は同様に追いたてられているアイルランド人に共感を覚えはしたが、
教育や習慣の点ではヤンキーに近かった。
南西部や西海岸のユダヤ人は幸運だった。他の民族と同時期に両地方に根をお
ろしたユダヤ人を妨害するような堅固な体制がなかったからである。
彼らはテキサス州ガルペストン市の建設にも一役かったし、1850年代には
ユダヤ系市長も出した。
黄熱病が流行した1967年には一日に6人ものユダヤ人の葬儀が出たほどで
ある。当時のドイツ系ユダヤ人の子孫は現在ガルベストンにはほとんど残って
いないが、その影響はいまだに消えていない。
今日ガルベストンに住む1,000人ばかりのユダヤ人は異教徒と対等の生活
をしている。
ガルベストンと同じような歴史をもつサンフランシスコでも、最高の社交界や
政治サークルでユダヤ系は対等の立場を保持している。
他の民族と時を同じくして西部へ向かったユダヤ人は、伝統的なユダヤ人生活
とは異なる生活を送った。サンフランシスコにあるエマニュエル聖堂はゴール
ド・ラッシュ時代に建てられたものである。採鉱者の中からミニヤン(礼拝を行
なうことができる最少定員10人 )が集められた。
ニューメキシコではジム・ハーパーというラビ(ユダヤ語で先生の意。ユダヤ教の律法学者。
15世紀以降は契約したユダヤ人共同体から費用をまかなわれるようになった)
が町から町をまわり、ラビを置く余裕のない小共同体の要求を満たし、ついで
にサーカスの騎手をして金を稼いだものもいた。
コロラドでは、アメリカのユダヤ人史にも特記されているサンファンの開拓者
として有名なオットー・ミアズが出現した。彼は金鉱発掘者でありインディア
ン闘士であり鉄道敷設者であり馬の調教師であり登山家でもあった。
会堂(シナゴーグ ユダヤ教教会)にも属しており、タルムド(ユダヤ律法とその解釈を記した全20巻、
250万語の書)学者としての評判もとっていた。イディシュ(東欧のユダヤ人が用いるドイツ語とスラブ語の混合言語)
なまりのインディアン語を話せる西部唯一の英雄であった。
しかし中産階級の中の中産階級であるドイツ系ユダヤ人は中部大西洋岸諸州で
最も栄えた。自分がユダヤ人であることを否定しはしなかったが、むしろドイ
ツ人に近いと考えていたし、世間もそれを認めていた。
ドイツ系ユダヤ人地区で発行される政党宣伝用小冊子は「ドイツ系有権者」の
心に訴えるのが例であった。
彼らはドイツ語新聞を読み、ドイツ語で会堂礼拝を行ない、子孫にすぐれたブ
ルジョア的教訓を与えようとした。
こういったドイツ系ユダヤ人の中にはヤンキーやアイルランド系の連中と同様、
南北戦争以後大活躍をした者もいた。
アメリカー般民衆の生活や商業生活にはかり知れないほどの貢献をしたルイゾ
ーン、レーマン、グッゲンハイム、シュトラウス、モーゲンソーなどの家系は、
この当時に確立されたものである。
1880年にはアメリカのドイツ系ユダヤ人は25万人を数え(註1)シフ
やワーバーグ(ともに欧州のユダヤ人富豪)のような大富豪こそ出なかっ
たが、みんなアメリカという舞台に居心地よい活動範囲を熱心につくりあげ
ようとしていて、その真只中に爆弾が投げこまれているのに気づかなかった。
爆弾というのは東欧のゲットーやシュテットルで極貧生活していた何百万とい
うユダヤ人の上陸である。シュテットルはボロ屋や薄汚い道路ばかりの村で、
法によってほとんどすべての職業につくことや一区画先のボロ屋神を一目拝も
うとデッキに鈴なりになってニューヨーク港から入国したが、彼らの言葉をて
んで理解できなかった移民検査官が片言を覚えるまで、エリー島で長い間待機
させられた。エリー島から渡し船でニューヨーク市に入るとローアー・イース
トサイド(マンハッタン島の下部)になだれこんだ。
それも一時的な滞在であった。この国のどこかに兄弟なり甥なり伯父がいたり
仕事の待っている幸運な者もいて、ローアー・イーストサイドを出ると・イ
ーストサイドと似たりよったりの場所に落ち着いた。
あるいはアイオワ州ダビンポートやペンシルベニアのシャロンのような小さな
町で乾物屋をやっている従兄のところの簡易寝台の上で眠りについた。乾物屋
の従兄にも給料を払う余裕はなかったが、食物と屋根つきの寝床はあった。
そして彼らはこの巨大な国の言葉をすこしずつ学びとっていった。
しかし、ダビンポートやシャロンやステートン島といったような土地へ移れな
い移民のほうが多かった。彼らはニューヨークのローアー・イーストサイドの
イースト河からブロードウェーまで、ブルックリン橋から14丁目までの12
平方マイルしかない区画に割りこんだ。
そこには他民族の移民ダループが先住していた。
この地区の人口を知ることはいつの時代でも困難である。
1880年のニューヨーク市には8万人のユダヤ人が住んでいた。
1910年には125万人。
1988年から1914年にかけて150万のユダヤ人がアメリカに渡ってき
た。
この数字からは雑踏、ごみ、騒音、ねずみ、結核のことしかわからない。
ユダヤ人のアメリカヘの最後の移民波は東欧諸国からのものであった。
ファート移民割当法が実施された1924年に、波は急激にカットされてしまっ
た。
同法はアメリカヘの移民を認められる人数はその民族の10年前の移民数の3
%を越えてはならないという趣旨のものだった。
議会はこの国へくるロシア人の数を一挙に数千人に制限することに成功した。
だがこの国へきたがらないイギリス人やスコットランド人には余裕たっぷりの
数字であった。
しかしすでにやってきていた東欧系ユダヤ人には議会も対処できなかった。
1920〜30年代を通じて彼らやその子供たちは、ローアー・イーストサイ
ドを突破してあちこちの「山の手」に住む努力をつづけた。
今日、ユダヤ系アメリカ人の約95%は東欧諸国からの移民の子孫と推定され
ている。(註2)
今日のユダヤ系アメリカ人の生き方や考え方はシュテットルに由来するもので
あり、過去3〜40年間の経験を通じてローアー・イーストサイドのかまどで
鍛えられこねあげられ精錬され強化――あるいは弱化?――されてきたもので
ある。
東欧からの満潮時のような波に比ぺるとその後の移民は小規模ではあったが、
ユダヤ系アメリカ人の生活に影響を与えた。
ナチスの手を逃れたドイツやオーストリアからの14万人ほどの亡命者が193
3年から40年にかけてアメリカヘやってきた。(註3)
有能な専門家が多かったが、金も持たないで逃げてこざるを得なかった者ばかり
であ
った。この流入はアルバート・アインシュタインのような大科学者やブルーノ・
ウォルターのような大音楽家、フランズー・ペルフェルのような作家、フレッド
・サンダーマンのような政治学者、戦時中にハリウッド映画界でナチスを演じた
すぱらしい俳優たち(コンラッド・ペイズ、ラドウィッダ・ドナス、オットー・
プレミンジャー、マーチン・コスレックなど)や街角で文具店を営む小利口な男
などで、この国に色どりを添えた。
戦後1945年から54年にかけて、新しいユダヤ人移民15万人ほどがやって
きた。
収容所で辛うじて生き残ったった人たちである。
東欧からも1万2,000人ほどやってきてブルックリンのウィリアムスバーグ地
区に
住みついた。正統派中の正統派……真正正統派ユダヤ人である。パエス(耳のあたりでカールさせた髪)
や黒い帽子をかぶった彼らの姿をいまもニューヨークの地下鉄のあちこちで見かける。
シリヤ、ギリシヤ、ユーゴスラビア、トルコ、エジプトなどからもアラビア語を話す
数千人のセファーディック系ユダヤ人が入ってきている。
最新の移民団は思いもかけぬ"キューバ″からきている。
地中海沿岸、中東からのユダヤ人の難民はマイアミに手ごろな植民都市を形成した。
ここは完全に彼らだけのもので他のキューバやアメリカのユダヤ人と交わることもな
い。
最後に1万人ほどのニグロ系ユダヤ人もいる。いわゆる黒いユダヤ人と呼ばれて、ほ
とんどハーレムに住んでいる。
自分たちの会堂を持ち、ユダヤ教の祭日を祝い、掟にかなった食物をとる。
だが正統派の権威者間では、彼らにユダヤ人と呼ばれる正当な資格があるのか、エチ
オピアのユダヤ民族のどれかの子孫であるという申し立てが確実な証拠のあるものか
疑問視されている。
議論はつづいてはいるが、ユダヤ人共同体からはつまはじきされている。
今日アメリカにどれくらいのユダヤ人がいるか、誰も知らない。
統計、学術的論文や類別された情報の収集で著名な『アメリカのユダヤ人年鑑』には
570万人と記されている。
しかし、国勢調査局には宗教に関する質問権がないので、全国に散らばっているユダ
ヤ人共同体の広報委員会の報告を基にする以外はないが、この情報収集の手段はいき
あたりばったりだと言ったほうがいい。
この項、明日につづく。
註
1 Uriah Zevi Engleman, "Jewish Statistics in the U. S. Census of Religious Bodies," Jewish Social Studies, IX, 1947.
2 Bernard D. Weinryb, "Jewish Immigration and Accommodation to America," in The Jews: Social Patterns of an American Group, edited by Marshall Sklare, New York, The Free Press, 1958.
3 Refugees in America, a study directed by Professor Maurice R. Davie, 1947.
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