創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[6分間の道草(臨時篇)]米国マディソン・アベニューの黄金時代の広告


(財)吉田秀雄記念事業財団の季刊誌『AD STUDIES』2010年夏号に寄稿した上記タイトルの原稿です。
khalki さんから、同号の全ページが同財団のHPにアップされたとのコメントをいただいたので、解禁と判断し、ぼくのエッセイの全文を再録します。




khalki さんのコメント


>chuukyuu様,
季刊誌『AD STUDIES』33号がWebページでも公開となっておりました。
http://www.yhmf.jp/activity/adstudies/33.html





アメリカの50〜60年代
クリエイティブ・レボリューション
米国マディソン・アベニューの黄金時代の広告





コラム「マディソン街の話題」


手元に1968年4月4日付『ニューヨーク・タイムス』紙のコラム[マディソン街の話題]の切り抜きと訳文の草稿がある。
筆者はカール・スピーゲル氏、見出しは「調査、イエス、でもアイデアも---よい趣味は売り上げに結びつく---」。
こんなふうに書き出している。


この業界の最近の〔ピン・アップ〕広告代理店は、ドイル・デーン・バーンバック(DDB)社である。
競争の激しい広告業界で、他の代理店の仕事に対するお世辞や賞賛はまれなことである。
しかし、最近では、いろんな代理店を訪れると、クリエイティブ部門の人たちの個室に、DDBによって創られた広告作品が、参考例としてピン・アップされていることが多くなった。


先週のインタヴューで、DDBの社長である46歳のウィリアム・バーンバック氏は、43丁目西20番にある氏のオフィスで、ふだんの言葉で応じてくれた。
「私たちは、広告におけるよい趣味(テイスト)は、売り上げるに通じるということを証明したと考えたいのです。
このことは、私たちの成功に大いに関係しています。
クリエイティブであることだけでは十分ではないのです」


オーバックスやブック・オブ・ナレッジ、リヴィ・パン、そしてフェアモント・フーヅなどの仕事が、DDBの名声を高めた。
と同時に、これらのクライアントをずっと継続させつづけた。
バーンバック氏の冷静さは、リサーチ関連の質問のときにちょっと神経質になったようにみえた。
そして、反論した。
「DDBは、クリエイターがぱっと吐く息(アイデア)にのって飛び回っているという神話をでっちあげられています。
どこからそのような話が始まったかは知らないが、事実ではありません」(後略)


当時ぼくは『ニューヨーク・タイムズ』紙を定期購読していなかったから、のちに転職した日本デザインセンターの資料室でコピーをとったのか、あるいは1961年以降に文通を始めたDDBから送られてきたものかもしれない。
全文は http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/20090423/1240433138


上記のDDBのクライアントはほとんどニューヨーク・ローカルの企業で、DDBを国際的ピン・アップ代理店にまで高めたフォルクスワーゲン・ビートルのシリーズが始まったのは、翌1958年8月であった。
つまり、それ以前にすでにマジソン街の広告クリエイターたちは注目を始めていたということであろう。


もちろん、有名なイスラエル航空の、大西洋の写真を破り「大西洋が20%縮みました」 は、全国媒体誌に載り、マジソン街人士よりももっと広く注目を集めた---というより 業界誌に転載されて再認識されたのだが。


12月23日を期して、大西洋が20%縮みます。
12月23日に就航する、ブリストルブリタニア機にご期待ください。
大西洋を横断する最初のジェット機です。

この広告についてのA/D ビル・トウビン氏のコメントクリック


1962年の秋から『ブレーン』誌に[効果的なコピー作法](のち同書名で誠文堂新光社)の連載を始めたが、12章のうち半分の6章に、DDBが創ったキャンペーンを引いて語る形で、当時のアメリカの広告クリエイターたちの熱い話題の紹介を試みた。
[効果的なコピー作法]は、それから20年後に復刻、向井 敏氏があとがきに代わる[雌伏二十年]を書いてくださった。
意をつくした名文なので、全文を引用させていただく。


「雌伏ニ十年」


アメリカの広告人は1960年代の広告界をさして、しばしば「黄金の十年」Golden Decadeとと呼ぶ。
じじつ、奇跡的というしかないすばらしい時代であって、名手英才がくつわを並べて登場し、DDBをはじめ、この世界に新風をもたらそうと図る意欲的な広告会社に拠って腕を競い、傑作逸品を相ついで世に送り出した。
この十年のあいだに広告表現のあらゆる型が出そろい、しかも完成度においてその頂上がきわめられ、以後の広告はことごとくそのバリエーションにとどまるといっても、けっしていいすぎではない。


が、「黄金の十年」というのは今日から見ての話であって、当時の広告人たちにしてみれば、才能に自信を持ちこそすれ、まさか自分たちがそういう時代を築きつつあるとまでは思いもしなかったにちがいない。
まして、わが国の広告人にそんなことがわかるはずがなく、時折り、雑誌などで彼らの広告を眺め、やるもんだなあと感嘆するくらいがせいぜいだったろう。


ところが、ここに一人、異常に勘の鋭い男がいた。彼はアメリカの広告界にただならぬ事件が起きていることをいちはやく嗅ぎつけたのである。
彼のまず眼をつけたのが、DDBが展開しつつあったフォルクスワーゲンの広告キャンペーン。
手をつくして情報を集め、それがかつてはもとより、今後もまたあり得ようとは思えぬ不朽の名作であることを知って、その展開をあとづけてみようと志した。
その成果が1963年に成った名著『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』(美術出版杜)。


このキャンペーンがはじまってまだ五年とたっていないというのに、そのあとづけの巧みさは刮目に値し、DDBの当事者たち自身、この本を手にして嘆声を放ったという。


これについで彼がねらいをつけたのは、アメリカ広告界きっての逸材たちが才能を傾けた傑作数十点を選び、そのコピー作法の秘密を解き明かすことだった。


が、それだけでは彼らの作品を解説したというにとどまる。
そこで彼は、広告づくりの基本となる方法を体系化するという野心的な試みを、それにダブらせようとした。
そして、一年有余の日子をついやしてこの試みと取り組み、1963年暮れ、世に問うたのが、ほかでもない、『効果的なコピー作法』である。


構成はよく練られ、濃い内容を平易な語りロに載せて、当時はもちろん、今なおこれに匹敵する広告指南書は数少ない。
もし、この本がもっと広く読まていたならば、その後の日本の広告表現はどんなにか違ったものになっていただろう。


けれども、いかんせん、当時の広告界はまだおさなすぎた。
市場環境もまた、わが国の広告の一般的水準から見て、その説くところは高度すぎたのである。
心ある人びとに拍手して迎えられながら、この本はついに実効を生むことなく、むなしく二十年の歳月を送ることになる。
が、この間に広告界は大きく様相をあらためた。
市場環境も大声をあげさえすればものが売れるという雑駁さからはすでに遠い。きびし銘柄競争下の広告作法を説く『効果的なコピー作法』の復刊を望む声が高まり、それが実現されることになったのも、また当然であるとしなくてはならない。


危うく忘れるところだったが、異常に勘が鋭くて、本を出すタイミングを二十年も早まったこの男は、名を西尾忠久という。




広告界「黄金の10年」


ぼくのことは措いて向井氏は、当時のアメリカのクリエイテターたちが演じた[黄金の10年]を、みごとに要約しているが、1、2省略していたことがある。
ひとつは、合言葉でもあった「ノングラフィック」。
この呪文にも似た合言葉を流布させたのは、第41回(1962)ニューヨークADC展の審査員たちと同誌編集者との一問一答を掲載した隔月刊誌『アート・ディレクション』(1962年4月号)であった。
ビートルのシリーズが登場してから2年目の審査会で、審査員の顔ぶれも若手への入れ替わりがあったことを記していた。
この年に話題の中心になったたのは、金メダルを与えられた、ウェスタン・ユニオン電報社の『無視してごらん』に代表されるシリーズであった。


無視してごらん


電報を無視するって? できませんよ。だれだって電報を無視しっこありません。あなたの電報は、
いつでも即座に注意をうながし・・・即答を強制します。はっきりした反応がほしかったら、電報
をおうちなさい。

上のシリーズについての解説クリック


Q 金メダルをとった広告の中には、全然、絵のないものがありますね。アングラフィック (ungraphics)ですか?
もう、絵は不用なのですか?
A そうとはいえません。私たちは、絵がなくてはならないとしては見なかっただけです。最初に、私たちはメッセージの点で検討し、それから絵を必要とするかどうかを----
A とにかく、本質的にはアイデアそのもの(the Idea's the thing)ですよ----ウエスタン・ユニオン社の広告をごらんなさい。見かけは美しくないが、おそろしいほどのコンセプトですよ----


Q テクニックは、もう、それほど重要ではないのですか?
A そうではありません。それは先行するものじゃなくって----アートディレクターはテクニックに精通していて、その向こうにあるものを見ていて----彼は広告人なんですから----彼は本質的には、メッセージを受けとる人たちのことを考えているんですよ。


Q メダルを受賞した広告やダイレクト・メールが効果的な広告かどうかを----
どうしたら知ることができる----とお考えですか?
A スターチ社が、ある広告美術展での最高賞の広告の注目率、精読率、単価当りの注目率のデータを調べたところ、みんなふつうの広告より約40%も高かったと報告しています。


この一問一答の反響は、アメリカ中のクリエイターたちに強烈な刺激を与えたようで、しばらく、あれこれの業界誌に「アングラフィック」という用語をめぐって論争が行われたが、ぼくが受け取った感じでは、DDBが1949年の創業以来、実行していたコピー&アート・セッション方式のクリエイティブ工程がようやく刷新をめざすいくつかの代理店に浸透しはじめたかな---という感じであった。


C&Aセッションとは、コピーライターとアートディレクターが担当している広告(販売)命題について、どちらかのの個室(ふつうはラフ・スケッチ用の用具が備わっているアートディレクターの個室)でアイデアのキャッチ・ボールを行ない、広告を仕上げていく方式で、いまでは日本でも当たり前のこととおもわれているが、DDBが創業した60年前の広告のつくり方はそうではなかった。


戯画化していうと、コピーライターがヘッドラインとボディ・コピーを黄色い法律用箋(リーガル・パット)にタイプライターで打ち終えると、下手くそくなラフ・スケッチを添え(もしくは添えないで)、紙ヒコーキに折って飛ばすと運よくアーチスト(絵付師)の机に着地する。
それを開いてイラストを描いたりレイアウトをするのが一般であった。
もちろん、印刷・製版技術の進歩により、イラストは写真にとってかわりつつあったが。


だから、上記の一問一答に、こんな会話も記録されていた。


Q イラストレイション (さし絵) から写真へ、タイポグラフイへの移行にみられるようなコンセプトの強調のやり方は、一時的な気まぐれですか?
A いや、もっと本質的なものです。アートディレクターが広告人としておとなになったのです。ことしだけの傾向ではないと思います。


Q グラフイックな面に重点をおかないということは、コピーがもっと多くなることを意味しますか?
A グラフイックな面に重点をおいていないのではありません。広告の本質的なメッセージ・アイデアに重点をおいているのです。コピーの量の多少には関操のないことです。へッドやテキストで、オーディエンスに鋭く切りこんだコピーへの傾向はありますがね。ヘッドやキャプションが、たった1語という広告も多くあったじゃありませんか。


Q そうなると、来年は、グラフィカルなデザインは骨董品になりそうですか?
A ある人にはそうかもしれません。しかし全体ではないでしょう。デザインはただデザイン自身のための王様ではなくなって、アイデアを伝達する役割りをもったときにのみ重要だということです。


2パートの引用のどちらにも出ている用語が「コンセプト」であることは、すでにお気づきであろう。
いまでは日本の広告界にかぎらず、いろんな局面で日常会話の中で特別に意識しないで使われている「コンセプト」という用語が、特別の意味をもってカタカナで表示されたのは、じつは、これを訳したときが最初である。(1963年新年号『ブレーン』誌


ウェスタン・ユニオンの電報文広告に戻る。
1961年7月から『タイム』誌ほかのビジネス誌で展開されたこのシリーズはベントン&ボールズ社のクリエイターたちの手になるのだが、これには手本があった。
1959年8月から始まったビートルのシリーズの中の「不良品 Lemon」と「小さいことが理想Think small」などである。


不良品


このフォルクスワーゲンは船積みされませんでした。車体の1ヶ所のクロームがはがれ、しみになっているので取替えなければならないからです。およそ目につくことがないと思われるほどのものですが---クルト・クローナーという検査員が発見したのです。
当社のウォルフスブルグの工場では、3,389人が一つの作業にあたっています。フォルクスワーゲンを生産工程ごとに検査するために、です(日産3,000台のVWがつくられています。つまり、車より検査員のほうが多いってわけです)。
すべてのショック・アブソーバーがテストされます(抜き取り検査ではダメなのです)。
ウィンドーシールドも全車が検査されます。何台もが、とうてい肉眼では見えないような外装のかすり疵のために不合格となりました。
最終検査がまたすごい! VWの検査員は1台ずつ車検台まで走らせていって、189のチェック・ポイントを引っぱり回し、自動ブレーキ・スタンドへ向けて放ちます。それで50台に1台のVWに対して”No"をいうのです。
この細部にわたる準備が他の車よりもVWを長持ちさせ、維持費を少なくさせるのです。
(中古VWが他の車に比べて高価なわけもこれです)。
私たちは不良品をもぎとります。
あなたはお値打ち品をどうぞ。

】 「不良品」となったエピソードクリック


小さことが理想。


10年前、最初の2台のフォルクスワーゲンが米国へ輸入されました。
ビートルに似た、その奇妙な形の小さな車は、まあ、無名といってもよいほどでした。
やがて、リッターあたり13.5kmも走ることが認められました(レギュラー・ガソリン、ふつうの運転で)。
さらに、一日中時速100kmで走ってもビクともしないアルミ製空冷式エンジン、ファミリー・サイズの適切さ、手ごろな値段も認められてきました。
フォルクスワーゲンは、ビ−トル並みに増殖し、1954年には、米国への輸入車のトップに立ち、以後、ずっとその地位を堅持しています。1959年には15万台のフォルクスワーゲンが売れました(うち3万台はステーション・ワゴンとトラックでしたが)。
ずんぐり鼻のフォルクスワーゲンは、いまでは米国名物のりんごストルーデル(デザート菓子)同様、50州すべてで見かけられますが、その鉄鋼はピッツバーグ製でシカゴでプレスされています(工場の動力源すら米国からの輸入石炭です)。
どのフォルクスワーゲンのオーナーにお聞きになっても、そのサービスのすばらしさとどこへ行ってもうけられる充実ぶりについては、褒め言葉ばかりでしょう。フォルクスワーゲンの成功は、決して小さくはありません。部品も常備されて、しかも安価です(一例をあげると、新品のフェンダーはたったの21.75ドルです)。フォルクスワーゲンの成功の要因は決して小さいとは言えませんね。
今日、米国ほか119の国々でフォルクスワーゲンは着荷するなり売り切れていて、生産が追いつかない状態です。小さな車に全力を注いでいるフォルクスワーゲンの生産規模は世界で5番目に大きいんですよ。もっと多くの人びとに、小ささを考えていただきたいものです。

】 「小さいことが理想」が誕生したエピソードクリック


いまでは、20世紀最高のシリーズとして評価されているビートルの一群の広告は、出るたびに欧米の志の高い広告クリエイターたちによってピン・アップされていたのを、ロンドンでもスゥエーデンのマルメでも目にした。
VWをあつかったことで、全米はおろか、カナダでもヨーロッパでもDDB自体が認められたばかりでなく、DDBのバーンバック社長(当時)がやろうした広告革命の意思が認められたといえる。


それは、DDBが『タイム』誌(1969年10月3日)に掲載した自社広告[これをするか、さもなまくば死になさい]に語りつくされている。


これをするか、さもなくば死になさい。


この広告を脅しとみますか?
違います。しかし、そうなったかもしれないのです。
そして、米国のビジネスにとって、するか死かの別れ道でもあるのです。
広告を通じて、私たちはクライアントとともに、人びとをトリックにかけるすべての力と技を持っています。
あるいは持っていると考えています。
しかし、私たちは間違っているのです。私たちはいついかなる時でも、いついかなる人をも、だますことなど出来ないのです。
実際、この国の6歳の子どもは、12歳並みの知力を持っています。
そう、私たちは、知的水準の高い国民です。
そして、ほとんどの広告が知的な人びとを無視しているがゆえに、ほとんどの知的な人びとがほとんどの広告を無視してしまうということになるのです。
そこで私たちは、仲間うちでの話をするのです。
媒体とメッセージについてとどまるところを知らない議論がそれです。ナンセンスです。
広告のメッセージはそれ自身がメッセージなのですから。
何も書いてない紙面にしても、何も写していないテレビのスクリーンにしても、同じことです。
そしてとりわけ、私たちがそれらの誌面やテレビの画面にのせるメッセージは、真実でなければな
りません。
もし、真実を曲げて伝えれば、私たちには死が待っているのです。
さて、コインのもう一面についてお話ししましょう。
それは、製品について真実を述べるには、真実を述べるに足るだけの製品が必要だという。
ところが悲しいことに、多くの製品はそうではないのです。
あまりにも多くの製品が、改良の努力を怠っています。特長もありません.
それに製品が長持ちしないものもあります.
あるいは、なくてもいいような性能がつけられています。
もし私たちがこのトリックを用いるなら、死ななければなりません。
なぜなら、広告というものは、悪い製品が早くダメになっていくのを一層促進するものだからです。
どんなロバだって永久に人参を追いかけてはいません。
事態がのみこめれば、追いかけるのをやめます。
これは覚えておいてよいことです。
もしそうしなければ、死を待つばかりです。
もし改革がないならば、そのうちに、消費者の無関心という大波が、広告され、製造されているたわごとの山を襲うでしょう。
その日こそ、私たちの最後です。
私たちは私たちの市場で死ぬのです。私たちの商品棚の上で、空虚な約束を記した美しいパッケージの中で。
物音もなく、すすり泣きもされず。
しかし、それは私たち自身のきたない手が引き起こしたことなのです。


向井氏が「名手俊才」と賞賛したクリエイターたちは、腕をふるわせてくれた代理店から自信満々で飛びだし、若干の侮蔑をこめて「ブティック」と呼ばれた小代理店をあいついで設立した。
おそらく10指ではきかず、足の指をくわえてもまだ足りないほどの「ブティック」が生まれたが、「花の命はみじかくて」の詠嘆そのまま、5年以上保ってさらに成長したのは、ウェルズ・リッチ・グリーンとカール・アリーの2社ぐらいであったろうか。
これは別に、「黄金の10年」にかぎらず、過去50年のいつの時代にもあった広告会社の栄枯盛衰の現象といえる。
「ブティック」時代があっけなく終わった理由はいろいろあろうが、その一つは、大きな広告費を必要とするテレビ広告時代に、「ブティック」は対応しきれなかったことであろうと見ている。


稿を終えるにあたり、一つだけわがままをお許しいただきたい。
ピッツバーグの新聞に載り、ニューヨークADCで金賞を得たコックス百貨店の広告である。
アートデイレクターはピッツバーグから離れなかったアーノルド・バーガ氏。ぼくが氏のローカル紙だけに載った作品を、日本の雑誌に紹介したときのものである。


ミキスポート(ピッツバーグ近隣の町名)はけっこう知名度があがりましたよ。
日本の『ブレーン』誌1963年10月号に、私たちの店---Coxと広告が紹介され、高く称賛をうけたからです。
私たちが太平洋をこえて日本へどのようにして届けたか? 簡単。この雑誌に寄稿しているある筆者が、ハイセンスの例を読者に示すために世界中から素材を集めているんです。
もちろん、私たちだって、この記事を読んだ日本の読者が、わざわざCox店へ来はしないとはおもっています。
だからといって、私たちは残念がってもいません。
私たちのお客さまのテイストの良さが誉められたんですからね。


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