創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(609)[ニューヨーカー・アーカイブ]を基にエイビス・シリーズ(1)


これは、広告史上に燦然と残る、負け犬健闘記です。


昭和42年初夏---1967年6月20日に、新書[講談社ミリオン・ブックス]の1冊として上梓しました。というか、編集部の小松道男さんの巧妙なおだてにのって書いてしまったといったほうがあたっていましょう。


当時、ぼくは、アメリカはおろか、外国と呼べる土を踏んだことはなかったのです。雑誌からの広告の切り抜きとDDB社との文通でまとめ、第1章としました。もちろん、今回、その後に入手した若干のデータは追加しています。

 




「私たちは、もっと一生懸命にやっています」

 

                 
あなたの会社は、業界で最大ですか?
あなたの会社の名は、多くの人びとによく知られていますか?
あなたの会社の業績は、うまくいっていますか?

 


これは、そうでなかった会社の物語です。
その会社は、アメリカのレンタカーの「エイビス」。
そして、いまなお(1967年時点で)死闘をつづけている広告合戦記です。

 



1962年度に、120万ドル(約4億5000万円 当時のレイト 1ドル=360円 以下同じ)の赤字を出したエイビスを買いとったボストンのラサール・フレレス投資銀行は、エイビスの経営陣を一新するとともに、本社をボストンからニューヨーク州のガーデンシチーヘ移しました。


赤字の原因は、2〜3年来、エイビスの力の強い地方でディスカウント・レンタカー4社がふえたからだといわれていました。ハーツやエイビスとちがって、ディスカウント・レンタカーの販売網は小さなものですが、急成長市場に目をつけ、その数が急速にふえてきていたのです。


エイビスの新社長に選ばれたのは、アメリカン・エキスプレス社で財務担当重役をしていたボブ・タウンゼント(41才)でした。
彼は、経営刷新のエキスパートと目されていました。

エイビスの社長に就任するや、広告代理店さがしを始めたといいます。友人たちに、これという広告会社を推薦してもらったところ、2社にしぼられました。


オグルビー&メイサー(O&M)
ドイル・デーン・バーンバック(DDB)


O&Mは、業界1位のハーツを引き受けるこころづもりをしているからと謝絶したそうです。


DDBは、ビル・バーンバックが直かにタウンゼント社長に会い、
「貴社のすべてを研究するために90日間の猶予をいただきます。また、われわれが提案したものに異論を申したてないでください。それでよろしいければ、DDBとのつきあい方について、クライアント・リストをさしあげますから、どの社へでもお問い合わせください」


この言葉は、タウンゼント社長の側近によって実証されたと、あるリポーターが報告しています。


結局、タウンゼント氏は、DDBに広告戦略をまかすことにしました。


当時のレンタカー業界は、2億5000万ドル(900億円)の年間売り上げを記録し、うち、2億1000万ドル(756億円)が短期レンタルによるものでした。
そして、この業界を牛耳っていたのが、ナンバー・ワンの「ハーツ」でした。
短期レンタルで比べると、


ハーツ  6400万ドル(230徳円)
エイビス 1800万ドル( 65億円)


エイビスは4倍近くも引き離されていました。


しかも、ハーツは、年間800万ドル〔28億8000万円〕の広告予算をつぎこんで名を売りこんでいました。


対抗するためにエイビス側は、広告予算を前年より55パーセント引き上げ、海外プロモーション費を含めて約612万5000ドル(約22億500万円)支出することをきめたのです。


全米1800営業所から「エイビスという会社をもっと広く知らしてほしい」という要望が提出されていたからでもあり、4億5000万円の赤字を克服するには、営業活動を活発にする以外には道はない、と結論されたからでもあります。


さて、エイビスの22億500万円の広告予算のうちのアメリカ国内向けの大金をまかされたDDBは、戦後間もない1949年に創業した広告会社ですが、「ウソを広告してはいけない。正直に話せば人びとはその広告を信じてくれる」という信念を実践して、13年間で世界9位にまで急成長していました。


3年前の1959年にクライアントになったフォルクスワーゲン・ビートルのキャンペーンをつくっていたことでもそのクリエイティブの力が広く認められていました。


DDBのエイビス・チームは、一方ではいろんな調査活動をすすめるとともに、もう一方では、制作チーム(コピーライターとアートディレクターのコンビ)が、DDBお得意の「足による取材」を始めました。
「足による取材班」は、経営陣に会ったり、営業所へ出向いて行き、受付の娘と話しあったり、駐車場に並んでいる車を調べてなにやらメモをとったり、配車係と客との応答を見たりしました。


エイビスのタウンゼント社長を取材したときは、こんなふうに会話がすすみました。
「エイビスの車は、1位のパーツと比べて、新しいですか?」
「いいえ」
「料金が安いのですか?」
「いいえ」
「お宅とハーツのあいだには、なんの違いもないのですか?」
社長は、ちょっと考えてから、
「私たちは、もっと一生懸命にやります」
調査部からの報告は、取材班をもっとがっかりさせました。大衆は、エイビスはレンタカー業界で、まちがいなく2位だと答えたというのです。
しかも、3位とほとんど差のない2位だと。


エイビス・チームは、幾度も幾度も会議をもちました。
いつも帰結するのは、「エイビスは、業界で2位だ」という事実と「私たちは、もっと一生懸命にやっています」というエイビス社長の言葉でした。


コピーライターのポーラ・グリーン夫人が、
「エイビスはレンタカー業界で2位です」
Avis is No.2 in rent a car.
この見出しの許可を求めたところ、バーンバック社長は、
「only を入れなさい」
Avis is only No.2 in rent a car.
「エイビスはレンタカー業界で2位にすぎません」


できあがったのが、この第1弾です。


エイビスは、レンタカー業界で2位でしかありません。
それなのに、お使いいただきたい、その理由(わけ)は?


私たちは、一所懸命にやるしかないのです。
(だれだって、最大でないときはそうすべきでしょう)。
私たちは、汚れたままの灰皿を我慢できません。
満タンにしてない燃料タンクも、いかれたワイパーも、洗車してない車も、山欠けタイヤも、調整できないシート、ヒートしないヒーター、霜がとれないデフロスターそんな車はお渡しできません。
はっきりいって、私たちが一所懸命にやっているのは、すばらしくなるためです。フォードのスーパー・トルクのように生きのいい新車に微笑を乗せてあなたにお出かけいただくために、そう、ダラスのおいしいバストラミ・サンドイッチをめしあがる計画ができるように。
なぜって?
私たちは、あなたにそれが当然のこととして受けとっていただくことが、まだできないからです。
この次、私たちの車をお使いください。
すいていることでもありますし、ね。


注・ダラスという地名は全米中、いたるところにある


C/W ポーラ・グリーン Paula Green
A/D ヘルムート・クローン Helmut Krone
"The NEWYORKER" 1963.05.18


参照】、


"I feel that you should be able to tell who's running that ad at a distance of 29 feet.
You can tell a Volkswagen ad from a distance of 30 feet, and an Avis ad from a distance 40 feet."
                             Helmut Krone


Mrs. Paula Green 自選作品


この広告はあやうく、ボツになるところだったんですよ。
クライアント側も、DDB社内でも、反対されました。
鋭いトゲがあるんですものね。
かわいげもないでしょ。
自社の恥部をわざわざ広告で世間に告げる、ってのも変なものですよね。
調査でもいい結果はでませんでした。
でも、バーンパックさんは、クライアントを説得してくださいました。
クライアントも、最後には受け入れる勇気をしめしました。
結果として、DDBの歴史の1ページをかざりましたよね。
まあ、もし、ボツになっていたら、自選作なんてお声は、
私にはかからなかっただろうってことだけははっきりしています。