創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(511)[頭痛と戦う三つの方法] by Mr. Della Femina(1)

[:W100]約4ヶ月ぶりの再顔見せです---マジソン街の戯画かわら板売り、ジェリー・デラ・フェミナ氏『広告界の殺し屋』(西尾忠久/栗原純子訳 誠文堂新光社 1971.4.30)。今回は[第8章 頭痛と戦う三つの方法]



これまでにアップした章クリック
第7章 [「陽気な緑の巨人」の創造
第6章 [クリエイティブ生活
第2章 [「スピーディ・アルカ・セルツァー」の死




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広告界のクリエイティブ革命が取り沙汰されている。
『ニューズ・ウィーク』誌も1969年の夏、この問題を特集した。
だがこのクリエイティブ革命を話題にする時、何十年来広告界で一役買ってきた偉大なクリェイティビティーについて語ろうとしないのはおかしい。


偉大な広告100選』という本を開くと、私も書きたかったような広告がずらりと並んでいる。
1901年頃の広告も載っていて、「すすんで生命を捧げる意志のある人求む」とだけ書かれている小さな求人広告もある。


「生涯の冒険に参加したい人を求めているが、もしかしたらこの偉大な冒険で死ぬかもしれない」という南極探険隊員募集の広告だ。
死なないまでも凍傷にかかるかもしれない。
なんというすばらしい広告だろう。


クリエイティブ革命というのは、すぐれた広告もあるが、くず同然のものもあると言いたいのだろうが、まずい言い方だと思う。
新語が持つ宿命のようなものだ。


今日では変わった若者たちが広告をつくっており、この男たちの呼び名がなくてクリエイティブと言わせているのかもしれない。


広告主は、代理店内にどんなに奇妙な行動がひろがっているか、実のところ気づいていないし、代理店内の奔放な変人についてはなにも知らされていない。
代理店側がこの連中をプレゼンテイション期間中は棚にしまいこんでしまう。
そうでもしなければ高慢な態度をとったり、愚かなことをしでかすかもしれないからだ。
広告主は真の奇人を目にすることはできない。
奇人だと考えるような男を目にしたとしても、それはあくまでも広告主の基準でそう考えるだけで、代理店内の奇人ではない。


例えば生きた目覚まし時計をほしがったハーブ……彼はニューヨーク市が定期通勤者用鉄道を改善するために債券を発行しようとした時の広告やコマーシャルを書いた。
一連のコマーシャルの中に、通勤列車に1000人もの人がつめこまれたらどうなるかを見せたものがあった。このコマーシャルはあわれな通勤者の見地に立ってつくられたものであった。
午後4時に出社してくるハープみたいな男と、この通勤問題のコマーシャルがどこでどうつながるのか判断に苦しむが、ハープは社会的な問題になると大活躍する。
ハーブほど弱い市民のことをよく知っている者はいないだろう。
彼は心から感じることができ、通勤者に同情することができるわけだ。


ハーブがつくった広告には彼の個性が随所に現われている。
彼だけがそうなのではない。
たいていの場合、つくった人の個性はその広告に現われる。
私が仕事を始めたばかりの頃「君のは街のお説教屋くさい書きかただ」と言われて仕事を降ろされてしまったことがある。


当時私のコピーからは敵慨心がにじみでていたらしい。
敵慨心はだんだん少なくなってきていると思いたいが、今でも同じような書きかたをしているかもしれない。


イヴァン・スタークはエア・コンディショナーを地獄に置いた広告を書いたことがあった。
悪魔が悪漢たちをひとからげにしてひと部屋へぶちこんで、ワールプールのエア・コンのスイッチを切ってしまう。
これがイヴァンの感じる地獄なのだ。
悪魔がエア・コンを止める……こんなふうな地獄を想像するのがイヴァンの個性で、これこそ彼をすぐれたクリエイターたらしめているのだ。


チャーリー・モスやジョージ・ロイス、そしてロン・ローゼンフェルドのような男ですら平均的人間とはおおいに異なったものの見方をする。


参照チャーリー・モス氏とのインタヴュー
ジョージ・ロイス氏とのインタヴュー
ロン・ローゼンフェルド氏とのインタヴュー


先日、車がしゃべるというクレイジーなコマーシャルを観た。
しゃべる車などというコマーシャルをどうして思いつけるのだろう?
おそらく車に向かって話しかけるコピーライターがつくつたのだろう……彼は車が話すことを信じて疑わないのだ。

自分が車に話しかければ、車も返事をすると信じているのだ。
こういった変わった男たちが結局は創造するのだ。午後の4時になると、ハープはこの世のものとは思えないライターになった。
彼の個人的問題は広告には現われない。
だが個性は現われる。
私はコマーシャルや広告を見て、誰が書いたのか言いあてることができる。
かつらがとれたような男はかつらがとれたようなものを書く。


大広告主はクレージーさなど意に介さない。
ゼネラル・フーヅが気に病むのはただ一つ、基本線だけである。
基本線とは男が広告を持って現われることだ。
精神異常者がつくろうがどうでもいいことだ。
誰がっくったかは気にしない。
コピーとアートワークを機械にぶちこんで広告がでてくるならそれでも満足をするだろう。
奔放な変人なんて、それに耐えなければならない代理店の社長にとってだけの問題なのだ。
それはたいへんな緊張だ。
私のところへも、窓の太陽の輝きが気にくわないと文句を言ってきた男がいた。
本当の話だ。
私は言った。
「日除けのことを知らないのか?」
彼は言った。
「どっか良くないんだ。うるさくて仕方がない。個室を変えてくださいよ」


普通はこう言うものだ。「もっと大きい個室にしてほしい」
だが彼は違っていた。
窓からの太陽の見え具合が気に入らないと言ったのだ。
広告ひとっつくるのに3週間も4週間もかかる男もいた。
製版しても400ドルとかからない広告なのに、1000ドル分の版下制作を発注した。
まともにやっても代理店の純益は120ドルにしかならなかったのだ。
私は彼から逃れなければならなかった。
ある日街でこの男に会った誰かがデラ・フェミナのとこを首になったんだって?」と尋ねると、彼は仕事ぶりそのままの答え方をしたそうだ。「彼らは……私の……仕事ぶりが……のろい……いと……一一一一いった……」


奔放な変人たちのほとんどはブティック代理店で働いている。
これは大代理店が小さな代理店を攻撃するために使った名誉毀損的な用語だ。
私に言わせればブティック広告とは新しい広告のことだ。
前に誰かが広告界で進行中の問題と学園問題を類似比較していた。
学園と同じく広告界でも体制派をおびやかしているグループがあり、体制派はそのおびえと戦っている。
違うのは私たちの多くは焼き払いたいなんて思わないことだが、テッド・ペイツ、J・W・トンプソン、レンネン&ニューエル、フット・コーン&ペルディング、コンプトン、ダーシーなどの体制派には私たちが脅威となっていることはたしかだ。
これらの巨大代理店はもう何十年間もマジソン街に君臨し、何十年間も強い抵抗にも会わずにきたのに、突然男たちが代理店を設立し出し、大胆不敵にも体制派から仕事を奪い始めたからだ。


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明日に、つづく。