(469)レオ・バーネットが語った(2)
日曜日の今日……・。
あなたに一篇の、古きよき時代の短篇小説をお届けする。
語り手は、山村の老農婦のように、聞き手も自分とおなじ村に長く住んでいて、細部まで共通体験を覚えている者と思いこんでいる。
それだけ、人生を信じ、友愛の気分が篤いのである。
この小説に、「まどろっこしい」とか、「情景が浮かばない」と、ちらりとでも感じたら、あなたは大都会のせわしなさに神経を磨り減らされかかっているのかもしれない。
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バーネット ある土曜の朝、たぶん1920年だったと思いますが、シカゴヘ出かけました。
そのころでも、事務所は最少限のスタッフで休日の土曜日も営業されていました。
私がはいっていくと応接間にはだれもいなかったので、通りかかった子どもをつかまえて、アーウィソ氏はいるか、とたずねました。
彼は、いや、アーウィン氏は土曜日には出社しない、という。
ウェージー氏はいるか、とたずねると、彼も土曜日にはこないという話。
だれか、仕事の話ができる人はいないのか、とたずねると、
「コピー・チーフのアート・カドナーさんなら、あちらで仕事をしています。たぶん、会ってくれる
でしょう」
それがアート・カドナーとの初対面でした。
問 そのころも、コピーライターは土曜日にも仕事をしていたのですか?
バーネット そうです。
わたしがもってきたのは多額のアカウントでした。
可能性としてひじょうに大きい、と私は考えていました。
われわれの会社が計画していたのは、当時としてはひじょうに高額な、およそ200万ドルのアカウソトだったのです。
私はアートーカドナーの事務所にはいり、自己紹介をし、「このアカウントを受けますか?」とききました。
「もちろんです」との返事。
で、私はその日ずっと彼とすごし、昼食をともにして、アートと知り合いになりました。
その当時、彼はコピー・チーフでした。
私はそれを知りませんでしたが、だからといって、彼に頼むのを変えるはずもなかったのですが……。
私をデトロイトヘ、そして自動車業界へ誘ったオーピー・ウィンターズがグリーン・ファルトン・アソド・カニングハムからアーウィン=ウェージーで働くためにきたところでした。
したがって、これはオービーとの再会になったし、アートと知り合いになる機会ともなりました。
それはまったくの好都合で、彼らはラファイエット(車の銘柄)のためにひじょうによい仕事をしてくれました。
私はその中にあって、オーピーや他のアーウィン=ウェージーの人だちからと同様に、アートからもひじょうに多くのことを学びました。
ラファイエットをやめてから、私はホーマー・マッキーのところで働くことになりましたが、やめるとき、アートは、もしこの仕事に興味かおるなら私に連絡してくれといっていました。
問 アド・マネジャーまたは編集者としてコピーをお書きになっていたのですか?
バーネット いくぶん書いていました。しかし、もちろんホーマー・マッキーでは、ずいぶん書きまた。
ホーマー・マッキーヘいってまもなく、マーモンのアカウントを得ました。
当時としては大したもので、いまでは消滅しましたが、当時いい自動車会社だったのです。
私はインデアナポリスに、ついに10年間いて、ひじょうに幸せな時代をすごしました。
私の3人の子どもたちもそこで生まれたのです。
ホーマー・マッキーはすばらしく繁栄している代理店でした。
しかし、マーモンの経営不振や、2、3のことで、まずくなりはじめました。その間1929年の大恐慌があり、一般的傾向として、あまり前途は明るくありませんでした。
私の家族はイソデアナポリスで、しごく快適な暮しをしていて、居心地のよい家やもろもろにめぐまれていました。
しかし、私は妻とそのことについてずいぶん語りあったのです。
私の年齢では……当時40歳でしたが……広告界でなにかになろうと思うなら、イソデアナポリスから飛びださなければならないと、そこで、私はアートに電話しました。
その間、アーウィン=ウェージーは本店をニューヨークに移していました。
それまでも、私はアートとオーピーの両人に、何度も会っていました。
で、私はニューヨークにいるアートに電話したのです。
「君がおぼえているかどうか、知らないが、ずっとむかし、もし私がきみの仕事に興味をもったら、君に話せ、といっ
ね、私はまさに、そのことで電話したんだ」
彼はいいました。「それはすばらしい、たしかにそういったよ。そして、いまもそういおう。シカゴのわれわれの店で働きたまえ、私からチェット・フォースト……彼は支店長だった……・に話そう。
できるだけ早く、そこで働いてくれ、チェットよりよい手当てがもらえるよ」
そこで私はシカゴヘいき、アーウィン=ウェージーで働きました。
私は創作部門の責任をもちました。
そこで、のちに私といっしょに仕事を起こした人だちと知り合いになったのです。
アーウィン=ウェージーに入社する少し前、私はデウィット・(ジャック)・オキェフを雇うように説いたことがあります。
彼はインデアナポリスで、私の下で働いていました。
彼は1935年に私か自分の店をはじめたとき、参加してくれて、いまは筆頭副社長です。
ゝ
問 書く広告が主体だった当時には、おもに、いわゆる堅い商品や自動車関係のものを扱っていられたのですね。
いままでのご経験で、同時に2つの商品コピーを書くのはむずかしいことだとお考えですか?
たとえば、自動車と冷蔵庫というぐあいに……。
バーネット いや、そんなに変わらないと思います。
もし、ある製品に適切な訴求源を見いだしたら、それをどの製品にも発展させることができると思うのです。
自分の会社の例からいうと、もっとも成功したもののいくつかは、私の代理店が手がけるまでは、その会社についてなにも知らないものでした。
私たちはサンタ・フェーの扱いをするまで、鉄道に関する知識は皆無でした。
ビュア・オイルの仕事をするまで石油については、なにも知りませんでした。
私たちは靴についてなにも知らなかったが、ブラウッシュー会社の扱いをしました。食品業にしても、私はアーウィソ=ウェージーで食品事業のグリーン・ジャイアソト会社について研究するまでは、ぜんぜん知りませんでした。
が、事実上、はじめからグリーソ・ジャイアソトの広告を担当しました。
今日あるジャイアントにするため再計画し、最初からそのアカウントをもったのです。(菊川淳子・訳)
東京コビーライターズクラブ訳/編『5人の広告作家』(誠文堂新光社 1966.3.23)より