創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(468)レオ・バーネットが語った(1)

[人探し]を呼びかけて、24時間を経過した。
当時のAWAの会のメンバーは引退・悠々自適をしていて、ブログなど読まないのか、当ブログの伝播力が弱いのか、菊川淳子さんについての情報は、一片も寄せられてこない。
バーネット氏の流れをとめないために、若い俊英たちに偉大な目標を参考にしてもらうために、インタヴューの一部をアップする。
菊川さんへは、事後承諾ということにして---。


    ★   ★   ★


 あなたが編集関係から広告へ移られたとき、新聞界で得た経験が有益だったとお思いでしたか。


バーネット ひじょうに役立ちました。
というのは、新聞界での体験が、事物に関する好奇心の重要性をおしえてくれたからです。

私は自動車に関するこまごまとしたことはしりませんでしたが、なにがモーターを動かすか、などということにひじょうに興味をもちました。

そこで、私は多くの専門的なことがらも、一般受けするように書きました。

そして、戦後、私はキャデラックヘもどりました。
その後、私をやとった人物もふくめたキャデラックの人員で、ラファイエット自動車会社がつくられました。いわゆる米国のロールスロイスにする勢いでしたが、1921年、不景気にみまわれました。


会社はインディアナポリスに移転し、私も広告マネジャーとしていっしょにいきました。
しかし、経済の不況下にあって、この種の自動車をかかえては経済的困難に落ちいってしまいました。
私は前途に凶兆を見ました……チャールス・W・ナッシュが関係していました。
会社はレイシンかケノウシャヘ移転しようと話していましたが、私はインデアナポリスで身を固めたので、移転するのはいやでした。


その後、その当時インディアナポリスのトップ代理店の社長だったホーマー・マッキー氏から申し出をうけたので、受けることにしました。
それが最初の広告代理店での仕事でした。


私はラファイエットをはなれて、マッキー氏の会社で、制作部門のチーフとして仕事についたのです。
彼自身、偉大なコピーライターで、私も彼から学ぶところが大でした。


 あなたのおっしゃることから察すると、広告のコピーを書くことは新聞原稿を書くよりむずかしいとお思いになったわけですか?


バーネット それははるかにむずかしい。
ずっと簡略化し、しかも事実を伝えなければならないからです。


新聞からはいろいろなことを学びました。
どうやって伝えるか、広告コピーとして、いかにして色づけ、興味を与えるか、です。


しかし、ある商品について消費者に関心を起こさせ、興味を刺激し、それを買わなければ……という結論に導く魔術的なポイントを見いだすのは、まったく別のテクニックです。

私は、少なくとも、ことばをつなぐ才能はもっていました。


 事実を組みあわせて、というわけですね?


バーネット 事実を組みあわせ、しかも、消費者に興味のあることを見いだしながら。


で、私はホーマー・マッキー社で働いていました。

ところで、ラファイエットとともにインディアナポリスへきた当時、エール・ハワードに広告代理店をさがすようにいわれたことがあります。


私は『サタデー・イプニング・ポスト』の年間に出版されたものに目を通して……それが当時、主だった雑誌だったわけですが……私はマクマナスや他の人から学んだ基準にしたがって、当時の私なりに、もっとも訴えるところのある広告をとりだしたました。


>>レオ・バーネットが語った(2)に、つづく


参照バーネット論 広告は信仰である .)     志垣芳生