創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(440)トミ・アンゲラーとの対話(7)

輝く眸と強い意志と-------


しかし、わしは、もっと先まで行ってきた
月の世界のむこうがわから、
いましがた,帰ったばかりだぜ。
テネシー・ウィリアムズ「やけたトタン屋根の上の猫」より

重役会 Chairman of the Board

     ●


1956年。25歳。
トミは、ストラスブールで知り合った米国女性とともにニューヨークにたどり着いた。


トミは言う。
「ニューヨークに着いた時、ひどい病気にかかっていたのです。そして、私はお金がなくて、働かねばならなかったのです。ある出版社の事務所で、倒れそうになりました。彼らはとても親切で、名もない私に500ドルの仕事をくれました。子供の本のための仕事です。この本は賞を得ました。メロープスものの最初の本でした。"The Mellops Got Flying" (1956)という本です」


無名の青年、異国から来たばかりの若者に、わずかばかりの試作品を見ただけで仕事を与えてくれる、格式ばらないニューヨークを「だから私はニューヨークが好きだし、すばらしい都会です」 とトミは絶賛した。


この頃のことだと思う。グリニッチ・ビレッジのトミの安アパートの隣室に、ひとりの女子学生が部屋を借りていた。
知的で、物静かで美しい女性であった。(1971年) 現在の弁護士アシャー・ヒージガー夫人である.
ヒージガー夫人は、10年か11年昔を思い出して語ってくれた。


「私がまだ貧乏で、グリニッチ・ビレッジの小さな部屋にいた頃、隣りにいたのがアンゲラー夫妻だったのです。彼らも豊かではありませんでした。でも、彼は今と同じように輝く瞳と強い意志をもって頑張っていました」
「ビレッジ時代の彼は、いつでも、こまごましたもの---たとえば、貝殻だとか玩具だとかを集めていました」
「昔の知人が有名になるのは、いいものですものね」とつけ加えて、ヒージガー夫人は微笑んだ。
現在のヒージガー夫人の住まいは、38丁目のパーク・アベニューとレキシントン・アベニューにはさまった閑静な住宅地区にある。
夫人は22階、3階、4階と、らせん階段をあがりながら各部屋にかかっているトミの絵を見せてくれ、撮影許可をくれた。
絵は全部で17点あった。
部屋々々では、クラシックな家具、落ちついた壁紙、厚いじゅたんの中で、無雑作な筆致のトミの絵がなじみつつ主張していた。
4階の大部屋で「チェアマン・オブ・ザ・ボードの絵を指して私が「これはいい絵ですね」と言うと、夫人も「私も好きです」と答えたのを覚えている。
1962-65年の間のトミの絵のほとんどは、ヒージガー家に集められているようであった。
この期間、トミはとくに絵を描いたのでもあろうか?
トミ自身のパークサイド家には2点しかなかったように思う。


インテリアの学校としては有名なバーソンズの出だという夫人は、澄んだ、おだやかな口調で、「私はインテリア・デザイナーであるとともに、不動産買売薬のライセンスも持っているのですよ」と前置きして、トミが今のバークサイド西262の高級アパートに移る今(1971)から3,4年前、98丁目酉186番地に恰好の家をみつけ、自分たちが入るにはお金が足りなかったので、トミ夫妻に入るようにすすめたという。
夫人は、トミのためにホーム・デコレイティングを全部引きうけてやったそうだ。
その頃の10月の末、トミは仮装パーティーを自宅で開いた。
「楽しいパーティーでした」と夫人はなにかを思い出したように微笑んだ。
「トミはどんな仮装をしましたか?」
「黒のぴったりした衣服に、脇腹と背骨だけを白く描いたガイコツの仮装をしました」
と、また声を立てないで笑った。
肋膜炎と腕のリウマチに悩まされながら,自信と期待と貧乏を持って米国に渡ってきたトミは、もうこの頃では,この国で地位を確保していたのであろう。


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