創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(441)トミ・アンゲラーとの対話(6)


考える早さで描く(つづき)------


1950年。
18歳のトミは、モータースクーターによる英国旅行を試みる。コルマールの中学で習っただけの英語力だけを供にして---。


トミの語学力について、彼自身は「英語だけがものになった。童話なんかも英語で書く」と言っているが、フランス語は母国語だから当然として、アルザス人の常識としてドイツ語も話せる。
その他の外国語は結局ものにならなかったようだ。
英国旅行が終わると、ヒッチハイクによるイタリア、オランダへの放浪が始まる。
トミには、知りたいこと、見たいところがいっぱいあった。
それぞれの国の、林や家々の屋根や星や小川が、トミに物語を語ってくれたであろう。
教会のステンドグラスや美術館の絵や彫刻が、彼に美を教えたであろう。
それにもまして、それぞれの国の人びとが、人間の愚かさや賢さ、愛の姿や怒りの表情の裏にかくされた人間本来のあり方を彼に示したであろう。
放浪は、スカンジナビアアイスランドまで延びた。
旅費を持たないトミは、漁船の水夫をしたりしながら船を乗りつぎ、車を乗りついで旅をつづけた。
魚臭が皮膚の奥深くまで彦みこんで匂った。潮風が肌を焼いた。
それとともに、彼の心のスケッチ・ブックは厚みを増し、創ることへの欲求は一層強まった。


     ●


1952年。兵役。
トミは、アルジェリアラクダ隊に配属された。
部隊の任務は、部族間の反目の調停であった。
トミ兵士はさしたる働きを残さなかったばかりか、1年で本国送還になってしまった。
リウマチと肋膜炎になったのである。
砂漠地帯の気候がトミの体に合わなかったらしい。
しかし、心療内科的にいえば、トミの拘束されることを極度に嫌う性格とはまるでうらはらの軍隊という組織に入れられたことが、反射的に神経的にトミを病気に追いやったともいえる。
リウマチは今なお完治していない。
腕が動かなくなる時もあるそうだ。
そうはいっても、アルジェリアでトミは、別の経験を重ねてもいた。
砂漠の丘稜の果てに沈む赤い月、満天に輝く星・・・・・などは, トミに詩を書かせた。


私は、トミの詩をみたことはない。
けれども、この期間の、いわば閉じ込められた生活は、詩作するのに好都合だったろうことは容易にうなずけるし創らられた詩は、多分『月から来た男』とか、美を愛するこうもり『ルーファス』、すてきな蛇『クリクター』などの童話の原形になったものと、『アンダーグラウンド・スケッチブック』や『パーティー』に見られる批評精神に溢れた皮肉なものであったろうと想像できる
トミにとっては、経験はすべて巧みに利用されるべきものらしい。


そして、トミが詩人になるよりも画家になるべく決意を固めたのは、除隊後だと思う。


シュミット家に残されている2枚の絵は、多分、この頃の制作のものだと思うが、幼稚さは完全に消えて完結さを示しているのを見ても、そう推測できる。
1点は、シダ科の草の押し葉を魚の骨にみたてて、それに細い線の輪郭と皿を描いた、トミらしいアイデアたっぷりの絵である。
もう1点は、黄色を基調色にして、葦原に輝く太陽を措いたもので、まあ、普通の風景画といってもよいのだが、なんとなく異様な感じを漂わせている。


シュミット氏が設計した学生体育館の壁面に、トミがモニュメントを描いたのは、トミの24歳の時であった。


シュミット氏の依頼で、24歳のトミが描いたストラスブールの学生体育館のモニュメント。
The mural painting in a school gymnasium which Tomi painted at the age of 24 asked by Mr.Schmidt.


兄嫁の父でもあり、トミのよき理解者の一人でもあるシュミット氏の好意によるものであったが、なかなかに好評であったようだ。
好評は自信を生む。
とにかく、トミは絵を描くことが自分の天分にもっともふさわしいと自覚したようだ。
24歳の頃からだから、決して早くはなかった。


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