(416)ゲイジ、ロビンソンさん、25周年を語る(7)
このインタヴューが行われた1974年前後は、初めのころ(7月14日)の記録にもあったように、マジソン街周辺では、それまでの社を飛び出してきた若者による広告代理店が毎日のように、誕生していました。若者は向こう見ずではあるが、特有の勇気と自惚れと誇りを持っていますからね。そして、バタバタと斃れていきました。その戦死には、「クリエイティブ革命の勇士」の弔旗がかけられました。そのころの戦記は、誰かによって記録されるべきです。
記事は『DDB News』1974年6月号 25周年特集号より意訳)
問:お2人、ご自身の広告代理店を設立しようとお考えになったことは?
ロビンソン:2人とも、まったくなかったわ。私自身、どこを押しても、ボブとそのことを話した記憶はありません。
ロビンソン:DDBで創業時のあれこれを、すでに1回体験しているんです。2度もやることはないわ。
ゲイジ:言うに及ばずです。
問:実は、私もそんなこと、ありえない---とは思ってました。
ゲイジ:そうさ。あるわけ、ないじゃないさ。
問:まだ質問していないことで、これは話しておきたいということがありましら、どうぞ。
ロビンソン:一つ、思いつきました。
私たちが質問に答えたことで、DDBの歴史を、みんなは十分に分かったと思うでしょうね。でも、そうじゃあないんです。私たちはなにをしたくなかったかについて、もっと質問されるべきなんです。創業するにあたり、いくつかの目標がありました。最大の目標は、「どうやれば、これまでの広告を「チェンジ(変える)できるか?」あるいは、「なぜ、できないか?」に答えることでした。ボブ、覚えてる? 私たちは、最初は印刷媒体で、のちにはテレビで回答をだそうと試みてきました。でも彼らはいったんです。「出来っこないさ。そんなこと、出来るはずがない」って。
私たちのDDBの目標は、「出来ないはずはない」でありつづけたんですよ。だって、私たちは、ルールNo.6---なんてもの決めたりそんなものを守ることを無視してきたんですもの。
オーバックスの1957年(DDB創業から8年目)のシリーズ
あまりにも、
安いので、
私、
死ぬかと
おもったわ
このシリーズはその年、大評判になった---とのコメントが付されて送られてきました。
ポラロイドの「人生の一断面」シリーズ
写真が10秒で仕上がれば、もっと楽しみがふえます。ご家庭にもポラロイド・ランド・カメラをお備えになったほうがいい時期にきているんではありませんか?