創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[6分間の道草](459)『DDBドキュメント 2』予告


拙編著『DDBドキュメント』(ブレーン・ブックス 1970.11,10)は、許可をとって『DDBNews』の中から適宜に選んで翻訳したものです。そのほとんどは、当ブログにアップしました(近く、目次をつくりましょう)。

当ブログのタイトルにした拙著『創造と環境』(ブレーン・ブックス 1969.5.30)にも、相当部分、『DDBNews』をアレンジしています。
そういうことからいうと拙編著『繁栄を確約する広告代理店DDB(『ブレーン別冊』 1966.10.1)にも、『DDBNews』の引用があります。


つまり、当時のぼくの本の骨子は、『DDBNews』だったともいえます。


『DDBNews』は、いってみれば社内報で、大半の記事は、ニューヨーク本社をはじめ、ロスやシカゴ支社、バリやロンドン、デュッセルドルフ海外支社の社員紹介です(モスクワと北京には支社はなかったみたい)。ま、それによって、ぼく、あるいは当時の世界の志の高いクリエイターたちにとってスター的存在であったコピーライターやアートディレクターの言動を読み取ったわけです。


社内報だから、配布先は従業員と、読む読まないは別としてクライアントの上層部と担当部署、さらには株式を公開してからは株主に毎号配布されたのでしょう。ぼくは、バーンバックさんの手配で、特別社友扱いだったのかもしれません。うーん、ジャイアンツ(タイガースでも、楽天でも、ほかのどの球団でもかまわないし、あるいはサッカー・チームでもいい)の応援団に見られていたのかもな。それは心外ですが---。


前置きが長くなりました。


資料庫の隅から、『DDBNews』の1963〜1976年(まさしく「黄金の10年間」)のほとんどの号が、ごっそり出てきたのです。


一山1年分 12月号→1月号 下左端=76年12月号 あなたなら分かる---下から2段目左端はボブ・ゲイジ氏がNY.ADC「名誉の殿堂」入りした時の号。その上はロビンソン夫人がNY.AWA「殿堂」入りの時の号


DDBの紹介は、1973年あたりから止めていたのでこちらからバーンバックさんやクリエイターに掲載誌を送ることもしなくなったので察したか、あるいバーンバックさんが逝くなったので、注意をする人がいなくなったか、とにかく、1976年からばったり---。


出てきた100冊近い『DDBNews』をめくっていて、「この記事はいまでも読みたい」というのがポツリ、ポツリとありました。
ときどき、それらの記事をあなたとともに読んでみたい---それには、翻訳に時間がかかります。気長にお待ちください。



創業25周年を記念した号---1974年6月号 あるアートディレクターの戯画。創業者のバーンバック氏:右端額、デーン氏:中、左端:ドイル氏 DDBの順