創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[効果的なコピー作法](8−3)

第8章 コピーのユーモア (3)



レクチャーの前の雑談と思ってください。

この章の()にカートゥーン作家のサヴィニャックに触れて、広告する製品とあまり結びつかないユーモア---とつい、言ってしましました。
頭の隅に、トミ・アンゲラーによる『ニョーヨーク・タイムズ』紙の広告、サムソンの絵を使ったアメリカン航空のシリーズ(>>既出)があったからです。


で、アンゲラーのイラストレーションの作品の一部を掲示します。というのは、この人を40年来、世界一のマンガ家の一人と尊敬してきているからです。彼の作品集もつくりました。献辞つきの作品集ももらいました。美大の教え子・武田秀雄くんを彼に紹介しました。なにはともあれ、『ニューヨーカー』誌に載った広告を見てください。たぶん、コピーが先にあって、それにイラストをつけたのだとおもっています。
最近、資料庫からでてきたのです。


Penetrating people get beneath surface of thing in The New York Times.

(意訳)心得のある読み手の眼光は、タイムズの紙背にまで達します。

『ニューヨーカー』1959.11.14号


As a rule, people with a clear understanding of the contemporary picture read The New York Times.

(意訳)難解きわまる現代絵画も、タイムズのアート欄の記事で理解がとどきます。

『ニューヨーカー』1960.3.5号


Women with well-formed opinions most frequently fashion in the pages of The New York Times.

(意訳)気ままに変化きわまりないファッションも、タイムズを読んでいらっしゃるご婦人方は流れを洞察なさっています。

『ニューヨーカー』1959.8.15号


For a more interesting view of fast-moving events, read The New York Times.

(意訳)動きのすばやいスポーツも、タイムズの記事で視点が深められて楽しさが倍加です。

『ニューヨーカー』1960.1.30号


The New York Times puts you on top of events where they are hatching.

(お遊び)あなた流の意訳コピーをコメント欄にお寄せください。締め切り5月24日。



オーバックスほど、すてきな商売はない


ここでは、ハイ・スタイルがロー・プライスとチームを組んで、すべてが新鮮。毎日、オーバックスは無数のお客さまに世界一ドラマチックなファッションをおとどけします。まだいらっしゃったことがないなら---さあ、早くおでかけになりません?

ユーモア広告(8−2)


この小エッセイで、ただの1回も「ユーモア広告いうことばを使いませんでした。なのに、なぜ多くの友人たちが、私が「ユーモア広告」を礼賛していると早合点したのか。
反省しました。
そして、やっと、そのわけを察することができました。
日本では、 「ユーモア広告」と呼ばれるもの以外、広告のユーモアについて語られたことがなかったのです。
ですから、「ユーモアのある広告」ということばが文字通りに受けとられなかったのだと思います。
「ユーモア広告」は、ユーモラスに表現することによって、他との識別性をつけようとする広告です。
したがって、ユーモアの出来、不出来が、広告の価値そのものをも決めてしまいます。
「ユーモアのある広告」は、ユーモアそのものが目的ではありません。メッセージ・アイデアをわかりよく伝えるための、ちょっとした潤滑油です。
しかも、この潤滑油は、必要な潤滑油です。
この違いは大きいのです。
つまり、前者は、アイデアの表わし方に焦点を合わた考え方であり、後者は、アイデアそのものに焦点を合わせているからです。


オーバックス百貨店の広告を読んみましょう。この章の第1回の最初に掲出した広告です。1959年3月29日の『ニューヨク・タイムズ』紙に載ったものです。


オーバックス?
オーバックス?
オーバックスって何だい?


おやまあ!どなたもご存じ、と思っていたんですが---。
このご婦人のご利益のために説明してさしあげましょう。(以下略)


このコピーの中に出てくる、「数百万のビジネスで数ペニーの利益("a business in millions, a profit in pennies")」というのオーバックスのポリシーのようです。
ほかの広告では、片隅に書かれています。


さて、この「オーバックス?」の広告を読んでいくと、この百貨店の経営方針といったものが、よくおわかりになるでしょう。
誇張もしていなければ、飾りたてもしません。
ただ、経営方針をユーモアをきかせて伝達しているだけです。


同じことは、「スクルージでさえニンマリする」という広告にもいえます。


ところで、広告にユーモアを入れた方がいいか、入れない方がいいか、という論議は、人によってマチマチです。
人によって・・・といいましたが、米国の場令は、広告代理店によって---といったほうがいいでしょう。というのは、米国の広告代理店は、それぞれの社がそれぞれの制作哲学をもっているからです。 (当然のことですが---)。
それぞれの社は、自分の社の制作哲学にのっとった広告表現をとるわけです。
第7章で紹介したオグルビー・ベンソン&メイサー社は、調査結果を重視する側の代理店です。
このオーバックスの広告をつくっているのはDDB代理店です。同社は広告にはユーモラスな要素が必要であるという立ち場の制作哲学をもっています。
M・メイヤーは『これが広告だ』でこう書いています。 (注:電通・調査局訳)


オーバックス、ケムストランド、 コール水着など3社のキャンペーンに、バーンバック(社長)とゲイジ(副社長) は漫画を写真に用いた。1つのアイデアを表現するために、リアルでないシチュエイション<漫画>のなかにリアルな人間<写真>を入れたのだ。いったい、DDB社はユーモアの効果を確信している(オグルビーによれば---ユーモラスな広告は効果がない--- 物を売らないという)。
バーンバックもこのユーモアを無条件で強調しはしない。ゲイジも「広告に用いるユーモアは、構想を練りに練ったものでなければならない。ユーモラスな要素が多すぎると効果がなくなるのだ。人は一度に、ただ1つのものしか見えないものだ」と述べている。


たびたび本書で引用するM・デポーも、ユーモアは広告にとってあまり必要ではない、という立場をとります。
彼は、ユーモアとその類似のテクニックをすべて、細工(devices)だときめつけます。
細工の部類に入るものを、彼は次のようにあげています。(注:M・DeVoe "Effective Advertising Copy")


・単に小器用(clever)とか小利口(cute)なコピー
・製品にふさわしくないユーモア
・気をそらすアート
・ギミックとガジット
・遠まわし、あるいは脇にそれたやり方
・トリック・ヘッドライン
・ジングル


彼は、こうした細工類が効果があるとすれば、「目や耳をそそらせるためにだけで、製品に関して好ましい印象をかたちづくるためではない」といっています。
また彼は、ユーモアに関して、「ユーモアが訴える範囲園は、まことに少ないものだ。人は広告にユーモアを求めもせず、ユーモアに行きあってもすぐにそれと気づかないで、ユーモラスな扱い方を誤解することが多い。
とくにこれは、ユーモラスなテキスト(本文) にあてはまる。まだユーモラスな絵の方が意味をとりちがえることが少ないようだ」が、もし「この広告にはユーモアが適すると考え、それで敢行することに決めたとしたら、最高の技術をもってその広告をまとめあげなければならない」といいます。


私は思うのですが、M・デボーがこの本を書いた1959年以前は、広告表現の傾向として「エキサイティング」なものが幅をきかせていたのだと思います。また、代理店の中には、アカウントを開きたいための、サーカス的プレゼンテーションを行なうところが多かったのだろうと推測します。
一方には、「科学的広告法」などというもっともらしいアプローチが話題になっていました。そこで、デボーとしても、そこらあたりを誤ったのだろうと思います。


ちゃんとしたコンセプトにもとづいた上での、ユーモアのある表現---といった考え方に達しないままに、もしユーモアを広告に入れるのなら「最高の技術をもってその広告をまとめあげなければならない」といったようなところへ逃げたのだと思います。もっとも、彼の忠告はししこのゲイジ副社長の「広告に用いるユーモアは、構想を練りに練ったものでなければならない」ということばと一致しています。



>>「ギミックとガジット」に続く




【オマケ】


トミ・アンゲラーは、ぼくより1つ若く1931年の生まれだったはず。
どういうわけか気があった。前例無視のところが似ていたのかもしれない。


ニューヨークのアトリエを訪ねた最初は、1968年だったように覚えている。彼から、生母へのメッセージをテープに吹き込んでもらい、北仏・ストラスブールの生家を取材に行ったのだが、ニューヨークに滞在したアパートに泥棒が入り、お金はおろか、テープレコーダーも盗まれために、現地ではトミの声を聞かせることができなくて、生母になかなか信用してもらえなかった。


38年ほど前に、彼の作品集もつくった。それにつけた伝記もいつか紹介しよう。
美大の教え子---武田秀雄くんがトミのファンだといってきたので、紹介もした。去年、スシラスブールで2人展をやってフランスの新聞に大きく報じられた。日本の新聞は気がつかなかったみたい。


トミから、献辞(献画)つきの作品集をもらった。うち、大人用の2冊を紹介する。


『ザ・パーティ』
ニューヨークのビック・ネイムたちが夫人(あるいは愛人)同伴でパーテイにやってくる。酔いがまわるうちに、デレデレ、本性まるだしのさわぎとなる。


その扉見返しに即興で描いてくれた献画。



『フォーニコン
終わりのない、マシン・セックスの業火。


[:W450]

『フォーニコン』の表紙の見返しに即興で描いてくれた献画。


『フォーニコン』の1ページ


武田秀雄氏『源平』より 部分 (武田氏の了解ずみ


>>「ギミックとガジット」に続く




関連ページ
>>「トミ・アンゲラーの視覚化」