創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(453)ボブ・エルゴート氏とのインタヴュー(3)

ヤング&ルビカム社 副社長兼アソシエイト・クリエイティテブ・ディレクター(1970年当時) 


男というのは、ほとんどが、いろんな意味で政治が好きらしい。小さくは社内政治、町内政治、すこし大きくなって市会、県会(学会)、そして国会、党内、もっと広くなると国連、世界---。そこでは、広告というより、宣伝が幅をきかす。うん、最近では男まさりの女性政治人もいて、ね。すばらしい。


78%の市民がリンゼイを支持していなかった


エルゴート氏 「リンゼイ市長のためのキャンペーンに関してもまた別のエピソードがあります。
1969年の3月に実施された世論調査では、ニューヨーク全市民のおよそ78%はリンゼイという名を持たない候補者に投票するであろうという結果が出ていていました。
1969年の6月、ジョン・リンゼイは彼が所属する共和党の市長指名予選に落選し、その席をジョン・マーチに譲ることになったのです。
後にマーチンは、ニューヨークに住む人びとはリンゼイをとても嫌っているから、これから先4年間リンゼイの下で苦しまなくてはならないことを考えれば、彼らは必ずボストン・ストラングラ一にその一票を投じるであろうと語っていました。
見方によっては、彼の意見は当っていました。というのは、かなりの数にのぼるニューヨーク市民は、その中でもとくに1965年の市長選挙の際にリンゼイを支持した中産階級で選挙権をもつユダヤ系米国人は、リンゼイはごう慢であるばかりではなく、彼らがかかえている多くの問題を理解しようとさえせず、過去4年間に価値あることをなにもやってはいないと感じていました。


私たちの仕事は、これが決して真実ではないことを人びとに十分説得することでした。
しかし、このすべてが私たちがリンゼイ市長を『売り込むこと』]だけを目的としたアイデアであると考えていただいては困ります。
私は、『市長を売り込むには』などと表題のついた本など決して書くつもりはありません。
リンゼイ市長はむろんのこと、彼に投票した人びとにとって必ずや侮辱となることなのですから。
それは単に真実を伝えないという理由からだけではありませんし、単なる遠慮によるからでもないのです。
広告だけではどうにもできない多くのことが1969年の市長選挙でリンゼイを当選に至らせたからなのです。


リンゼイを市長に当選させた陰にはマリオ・プロカシノの存在を忘れることはできません。
彼が途方もないことをしゃべったり、怒りをさらけ出す度に、彼には市長という重要な役職をこなすことはできないだろうと人びとは感いました。
こういう人びとの心の動きも見落とすわけにはいきませんが、民主党内部の分裂もリンゼイにとって大きな救いとなったことも事実です。
また多くのすぐれた民主党員と共和党員がリンゼイを支持するために所属する党を離れたということも挙げられますし、『リンゼイを市長に』の声で立ち上がった二ューヨーク・メッツの存在も見のがせません。
彼らがワールド・シリーズに優勝した時など、ニューヨーク市民のお祭りさわざは数日間もつづいたほどです。


このようにちょっとした人びとの喜びもまたリンゼイ市長誕生へと結びつくことになったのです。
しかし、こうした人びとの助けもリンゼイ自身の努力にくらべたらその足元にも及ばないものです。
テレビ討論会での彼の出来は非のうちどころがないほどでしたし、地方新聞にベトナム戦争に関する記事を載せたことも成功でしたし、さらに、なんらかの問題に頭を痛めている人びとのために、彼の事務所にいる人びとをフルを使ってすばやく問題の解決にあたらせたことも効果的でした。
さらに彼の精力的な活動は、広告をつくるために方針を決定する際にまで及びました。


この『ミステーク』のコマーシャルのアイデアは、1969年の3月に市長選に再出馬することを表明する演説の中でリンゼイが犯した失敗Iもとたどることができます。
アメリカ合衆国で2番目に困難な仕事』という言葉は、長年彼が唱えてきたことから思いついたものなのですが、実際に引用したものはすこし手を加えたものです。
彼はそれまで『アメリカ合衆国で2番目に重要な仕事』と言っていました。
私たちは、この言葉にテーマをしぼることを決めている間にもこれを実行に移す際に役に立つものが多く出てきました。
市長自身にたいして、また彼がこなさなくてはならない仕事にたいして、いくらかの同情を集めるのに役立つとともに、それは彼が初めて市長になってから4年の間に犯したいくつかの過ちを説明していました。
またそれは、多くの有権者に彼らが感じていたものが正しかったということを思い出させました。
それはつまり、ニューヨーク市を指揮する仕事は, リンゼイ市長の競争相手にとっても同じようにむずかしいことであるという考えだったのです」


chuukyuu 「当時あなたはどんな具合にアートディレクターと仕事をしていらっしゃったのですか?」


エルゴート氏 「まず、事実を徹底的に究明することからはじめました。
そこでできるだけたくさんの情報を集めました。
つぎに,広告で解決できると考えられる問題を限定し、その中から広告のテーマを選び出しました。
それからテーマが決まり、ラフがあがった段階で私たちは部屋にとじこもってアイデアを練ったのです。
『ギブ・ア・ダム』とリンゼイ市長のキャンペーンをつくった時、私が組んだアートディレクターはマーブ・レフコーウィツでした。
時には私とマーブの2人だけで仕事をすることもありましたし、また時にはライターであるトニー・イジドーが私たちの仲間に加わることもありました。
私たちがもっとも多くの時間を費やしたのは、表面的な、あるいは簡単な解決策をひねり出すためにアイデアを交換しあう時でした。
例えば、ごきげんなアイデアが浮かんだとしても、私たちはすぐにそれを受け入れるようなことはしないで、さらにほかのアイデアを求めることを怠りませんでした。
そしてこれは、もっともよい解決策であると考えられるアイデアが見つかるまでつづけられるのでした」


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リンゼイ市長選のためのキャンペーン

昨年の当市最大の降雪の前に、私は、天候については、全く違った推測をしていました。それは私の間違いでした。しかし、6、000人以上もの警官を街に出したことは、間違いではありませんでした。学校のストライキが最悪の事態となって進められていったことは、私たちすべての間違いでした。でも、私はこの街へ22万5,000口の新しい仕事をもたらしました。
そしてそのことは間違ってはいませんでした。
また、私は、警官隊を通りに出すために3年もの間努力しました。
このことは間違ってはいませんでした。
それから、私は劇毒ガスを50%減らし。家主たちに不正な家賃を元に戻すように強制しました。さらに当市には、デトロイト、ワッツ、ニューアークのようなことはありませんでした。
これらのことは間違いではありませんでした。
以上あげてきたようなまずいことがらは、当市をアメリカで2番目の厄介な代物にしましたが、 うまくいっていることがらは、まさに、私の望んでいるとおりのものです。


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