(452)ボブ・エルゴート氏とのインタヴュー(2)
ヤング&ルビカム社
副社長兼アソシエイト・クリエイティテブ・ディレクター(1970年当時)
DDBが起爆剤となり、1960年代の後半から'70年代の前半にかけて、米国の広告クリエイターたちのあいだでは、地殻変動とでも呼べる変化が起きていました。延因は、ヴェトナム介入に対する若者たちの反発と逃避だったかもしれません。
その変動を、すばらしい才能とチャンスに恵まれた24人の第一線のコピーライターたちに直(じ)かに会い、自身の口から語ってっもらおうという、きわめて贅沢な、そしていろんな意味をもった企画を立てました。記録は、当時の『ブレーン』誌に2年間連載され、のちに2冊の単行本にまとまりました。
インタビュー形式の記事だったので、単行本には、彼らが語った英語もチェックを経て載せました。それがよかった---いま、こうして、世界中の志のあるクリエイターに当時の若い世代の真の姿をふりかえってもらうことができるのです。
40年間に変化していたことといえば、そのころ話題になっていたパソコンによるインターネットが実用化されたことぐらいですからね。その実用化がもたらした意識革命の芽と反響の大きさには、計り知れないほどのものがあります。
1968年春の都市状況が「ギブ・ア・ダム」キャンペーンを生んだ
chuukyuu 「いま挙げていただいた広告にともなうエピソードとか背景とかいうようなものお聞かせください」
エルゴート氏 「『ギブ・ア・ダム』キャンペーンからお話ししましょう。
このフィルムがつくられた背景を理解するためには、1968年春の二ューヨーク市の状況を知っていだかなくてはなりません。
当時多くの人びとは恐怖の底につき落とされていました。
ワッツやデトロイトの騒動が彼らの心に鮮明に残っていたのです。
とくにニューアークは、他人ごとではすまないほど地理的にニューヨークの近くにある市なのです。
しかも首都ワシントンにも火の手があがろうとしでいたのです。
白人が集まって近所同士で自警団を結成するという話も聞かれましたし、銃砲店からピストルや弾丸の売り上げが伸びたと報告されました。
人びとは何をしていいかわからないにもかかわらず、何かをしないではいられなかったのです。
ある牧師さんは、週末の奉仕に参加する人びとを募り、空地を掃除したり玄関前の階段のペンキを塗りかえたりして、隣りあわせに住む人びとを助けるために白人居住地からハーレムに乗り込んでいきした。
またある法学博士は、マフィアと連絡をとるために、そして彼らの根拠地の秩序を維持するのに助けが必要かどうかを問い正すために、イースト・ニューヨークの中心部へ出かけていきました。
さらに彼は、直接救助の手をさしのべることも忘れませんでした。
ここに『ギブ・ア・ダム』キャンペーンにとって絶好のチャンスが到来したのです。
このキャンペーンは、怒りや心配など感情の入りまじったニューヨークの雰囲気にはうってつけのものでした。
またそれは『貧民街』という言葉を聞いた人びとが『暴動』以外のイメージを描くようにもっていくことも忘れませんでしたし、現実に起こっている多くの問題に人びとの目を向けようとする努力も怠りませんでした。
私たちはほかの仕事を扱う時と同じ方法で、この仕事に着手しました。
つまり、目的を明確にし、それから戦術を練るというやり方で---。
しかし、この段階を踏む前に私たちは、ニューヨークに点在する貧民街に出かけていき、事実を把握しなければなりませんでした。
このような仕事に関するかぎり、調査というものが役に立つのです。
私たちは外に出て直接人びとと話し合い、彼らがかかえている問題がなんであるかをつきとめる必要があったのです。
つぎにしなければならないのは、なによりもまずどういった広告が彼らに役立つのかを知ることでした。
このような人びととの話し合いに私たちはおよそ1週間費やしました。
これは時間的に十分といえるものではなかったのですが、とにかく私たちは早く仕事を進めなくてはなりませんでした。
そうしたある日、貧民街に住んでいる一人の子どもに『ここに住んでいない人には関心(ダム)ないんじゃないの?』と尋ねられて、私たちは、これこそ伝えなければならないものだと思いました。
しかし、これは2つの放送局から異議を申し立てられ、ほかのアイデアを提出させられる破目になってしまいました。
その一つは、『関心(ダム)』は広告主にとって好ましくない前例をつくる可能性を十分にもった悪い言葉であるといってきました。
(そこで私たちは、その局の夜のテレビ映画の時間に放映した『ダム(くたばれ)・ヤンキース』という番組の広告をなぜしたのかと聞いたところ、
彼らは映画はクリエイティブ・ワークだからと説明するではありませんか。
この言葉を聞いて私たちは、数日の間やる気をまったく失ってしまいました)。
もう一つの放送局のほうは、このコマーシャルを流してはくれたのですが、
それにしても1ヶ所だけ彼らの手で変えられた『ダム』抜きのものでした。
そうなんです。彼らは私たちがつくったコマーシャルの最後の『ダム』にかえて,『仕事を与えましょう---お金をあげましょう---bleep(?)をあげましょう』と直したのです。
それは私たちをさんざんに打ちのめしきした。
私たちは、私たちがつくった広告が強い説得力をもっていることを知っていたのですが、だからといってこの広告には目の前にある大きな問題を解決することはできませんでした。
そこで私たちはこの妨害を打ち破るためにあらゆることを試みました。
そのために1ヶ月ほどかかってしまったのですが---。
まず、私たちを支持してくれるF.C.C (連邦教会評議会)やN.A.B.(放送作家会)、Codeauthorityやハンフリー副大統領などからの協力を得なければなりませんでした。
ハンフリー副大統領はかつて、若者に機会を与えることを目的とする大統領直轄の機関のキャンペーンのために、私たちのテーマを採用してもいいかと市長に電報で問い合わせてきたことがありました。ところで、一度媒体問題が解決すると、媒体側も、まともにいくと総額225万ドルにも及ぶ時間帯と紙面を無料で提供してくれることになったのです。
以上はわずか2ヶ月の間にニューヨーク市で起こったことなのです」
『ギブ・ア・ダム』キャンペーン [葬式]
墓地で赤ん坊を埋葬している。
「全能の神よ-- (犬の啼き声)---土より出でしなれば土に帰るべし。
塵より出でなれば塵に帰るべし。
願わくは彼を天に導き---」(牧師のお祈りつづく)。
アナ「『貧民街』の健康状態はとても悪いため、
有色人種の赤ん坊の死亡率は、白人の赤ん坊のそれよりも、ほとんど3倍も高いのです。
もしあなたが、このことで何かしやりたいとお思いなら、どうぞ<ニューヨーク都市連合の
仕事を手伝ってください。『貧民街』の人たちに仕事を与えてやってください。
お金を寄付してください。関心をはらってください」