創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(445)DDBタッチ

  (1965.9.25の『アド・エイジ』紙のステファン・ベイカー氏のエッセイ・コラムより抄訳)


広告代理店で働く人びとにとって、自分が働いてもいない広告代理店が優れているということを、公然と認めることは、容易なことではない。それなのに、多くの人たちが、そうしているのである。DDBの出現以来、とくに著しい。

DDB調でいこう」という挨拶が広告界で交わされているのを、よく耳にする。
とりわけ、このこのごろはその頻度があがっている。

クリエイティブ部門の人たちへの激励語として、諫言として、あるいは単なるスローガンとして口にされている。

アカウント・エグゼクティブ連中は、このスローガンでクリエイティブ部のクリエイターたちを励まし、新鮮な思考に導こうとしているようだ。

一方のクリエイティブ部の人たちは、アカウント部門の者が引き腰にならないように、このスローガンで背中を支えている。


DDB調の広告」が構成しているものは、美しい女性のよにうに、さまざまな人に、さまざまなものを意味するのである。


秘密の成分はグラフィックにあると---挙げる仁もいる。この仁は、その典型的な例として、オーバックス(婦人もの主体の百貨店)のキャンペーンで用いられた「大きな写真を使うアプローチ」を指摘する。


こんなの、いかが?


あなたにもできますよ。ゴムのりを使えば(あるいは髪からたらしたヒモでなら)。ほんとうにおやりになる気がおありですか? それなら、オーバックスはあなたのお店です。
オーバックスのお客さまには、世界的に有名な方がたくさんいらっしゃいます。
新しくて大胆なファッションをオーバックスでお求めになっているご婦人方です。
でも、もしあなたが、クラブで会うようなお友だちとチグハグでないようにというお気持なら・・・・あるいはプレーンで美しいファッションをお望みなら、オーバックスは、やっぱりあなたのお店です。
オーバックスにいらっしゃれば、スマートな洋服があるというだけでなく、品質がよいこと、豊富な晶ぞろえということがどんなことだか、お分かりいただけます。
そして年を追うごとに、なぜこんなにも多くの人がオーバックスからお離れにならないかをお分かりいただけます。
最初の5分間で、オーバックスのほんとうのおもしろさは、美しい洋服に加えて・・・・それを楽しむのにもわずかのお金ですむというところにあるのだと、お気づきになるでしょう。



「こんなの、いかが?」シリーズ




>>その他のオーバックス(Ohrbach's)の作品はこちらから


しかし、この「大きな写真」を擁護する仁は、DDBは「小さなイラスト(例:アメリカン航空)があるし、全然つかわないエイビス(レンタカー)もあることを忘れていようだ。



もし、エスビスの車の中に
たばこの吸殻がありましたら
苦情をお寄せください。
それは私たち自身のためになることですから。


私たちは前進するために、あなたのご協力を必要としているのです。エイビスは、この業界ではまだ2位にすぎません。ですから、私たちは一所懸命にやらなくてはならないのです。
たとえばそれが、グラブ・コンパートメントの中の地図がしるしで汚れていたり、お客さまを長く待たせすぎると思われるようなことであっても、私どもにお申しつけください。
肩をすくめたり、「仕方がないや」で済まさないでください。私たちを追いたててください。
当社の関係者は、ちゃんとわかっています。全員に通達してあるんです。全員が、フォードのスーパー・トルクのような生きのいい新車より少しでも劣るようなものをお渡しすることはできないことを知っています。
そして、すべての車は、中も外も完全に整備されていなければならないということも。
そうでなかったら、騒ぎたててください。
ニューヨークのメドウ氏がそうしてくださいました。この方は、ガムの包み紙を見つけて持ってきてくださったのです。


DDBでは、写真は二義的な意味しか持っていないとして、コピーを問題にしているグループもある。なるほど、一理ある。しかし、それでは、あの恐ろしくうまいフレーズ創りはむどうなってしまうのか。たとえば、〔なにか正しいことをしているに違いない〕とか〔ソフト・ウィスキーとかのことを言っているのである。


働きやすさ----を重要視する人たちもいる。たしかに、彼我相互に信頼しあっているアカウント、銀行にたっぷり金を預けている広告代理店なら、いちばん優秀なクリエイターを雇う余裕もあろう。しかし、「支払った分だけのものが得られる----と信じる人びとは、DDBのすぐれたクリエイターたちは、給料の多さのためだけではなはなく、自分を満足させるために働き、事実もつとも優れた広告、コマーシャルは、ほとんど費用がかかっていないという史実を見落としているようだ。
たとえばVWビートルの写真を撮っているウィンゲイト・ペインは、ほとんど無名に近い写真家であったともいえる。


1949年に、米国で2台のフォルクスワーゲンを売りました。


その2台のVWのオーナーは、ずいぶん笑われたようです。
でも2人には、VWを持ちつづけるだけのちゃんとした理由があったのです。
1ガロンあたり32マイル。凍りついた丘でも自分たちを(そして、動きのとれない隣人たちを)乗せて登ってくれるてクラシックとして愛されるようになるのを見たのです。
味わいました。
1960年に、どれほど大勢の米国人がVWを買ったかを、この'49年組の2人が知ったら、きっとうなってしまうでしょう。約185,000台(ステーションワゴンとトラックを含めて)、'59年の23%増です。
そしてもし12歳になったはずのVWをいまも持っているなら、米国中どこのフォルクスワーゲンのディーラーにも乗り入れることができますし、取り替え用部品がその場で揃うこともわかっていただけるでしょう。
フォルクスワーゲンは依然として、基本的には同じなのです。人びともほうが変わったのです。


じゃあ、DDBのコピーライターやアートディレクターのユーモア・センスの問題に違いなかろう----でも、この広告代理店で無創られた広告すべてが、ファニーでばないはず。ポラロイドは、10秒で写真ができあがる---の訴求には愉快のカケラもない。


見たまま、です。


DDB調」を分析しようとする人は、みな、たくさんの答えにぶつかってしまうであろう。それらの答えの中のどれか、あるいはすべてに、ほんのすこしずつ真実があるとしいうことであろう。


  DDB アプローチにおける共通分母は、〔正直〕である。



コピーライターは、最少限度の空騒ぎで、要点に達することができ、アートディレクターは見当違いのイラスト(写真と絵)を好まない。

DDBは、広告を正直に制作し、同時にクリエイティブなものにすることが可能であると証明している。
おおげさなカラクリがなくても、DDBの広告は興味深いものばかりである。
こういうキャンペーンは、ショーマンシップだけでなく、事実に対しても深い注意をはらつている人びとだけによつて制作されうるのである。

表面的に見れば、DDBアプローチは、問題に対しての常識的な解決法で、全然ユニークなものではないように見える。しかし、ほかの広告と比較してみると、際立っている。


DDBのアプローチは、広告史における最も刷新的な改革の一つといえる。
DDBが新方向を生み出したと言ってもいいほどである。

もちろん、創造工程の魔法も、一つの助けになってはいる。けれど、ケーキの上の砂糖の衣的存在である---といはいえ、そのためにすばらしいケーキになっていることも事実。