創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(429)ジェリー・デラ・フェミナ氏とのインタヴュー(1)


【用法】
子曰く、これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。
宮崎市定 子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ちこんで楽しむことの深さに及ばない。『現代語訳 論語宮崎市定 岩波現代文庫


(chuukyuu賛:儒教の根幹である『論語』も、宮崎さんの手にかかると、広告制作の---いや、人間の生き方の根本に達する。)




デラ・フェミナ トラビサノ&パートナーズ代理店
社長当時


おツムはやや薄くなっているが、齢は若い(注:33歳)。とにかく、書いていれば楽しいらしく、あちこちのコラムにエッセイを発表しては物議をかもしている。最近(注:1969年)は、半自伝的なマジソン街の内幕物も上梓して、若い人たちをおもしろがらせた、「マジソン街の新しい論客」と紹介しておこう。デラ・フェミナ、トラビサノ&パートナーズ代理店の社長である。


創業までのいきさつ------4人で共謀して


chuukyuu「この代理店が開かれたのころの様子をお話しください」


フェミナ氏「この代理店がスタートしたのは、およそ2年前です。
自分たちの広告代理店を持とうではないかということで、テッド・ベイツ社をやめた4人がこの代理店の最初のメンバーで、その内訳はコピーライターが2人、アーティストが2人でした。
発足当時は、アカウント獲得のためにとくにみんなものすごく働きました。
みんなタフでしたね、あのころは。きっと日本でも同じではないですか。
ところが、創業3ヶ月にして仲間の2人が、私たちのやり方に満足できないというだけの理由でやめてしまいました。
その後残った2人は、この代理店を年間扱い高2,200万ドルの今日にまで引き上げてきました。
こういった意味では、私たちはとても早く成長した代理店ということになります。
広告界は、ファッション界と似ています。いつまた新しいグループが誕生するのかと、ファッション界の人びとは日を光らせていますが、この世界も同じです。
新しい代理店ができれば先方から依頼してくるという具合に、いくら電話をかけてもいっこうに返事がこなかったというのに、つぎの日にはまさしくその相手がこちらに出向いてきてそのアカウントを引き受けてもらおうと必死になるのです」


chuukyuu「この代理店を始められたのは、デルハンティー・カーニット&ゲラ一社(DKG)をやめたあとすぐですか?」


フェミナ氏「いいえ。DKG社は、私がテッド・ベイツ社にはいる前にいた代理店です」


chuukyuu「DKGには、どのくらいいたのですか?」


フェミナ氏「2年半ほどです」


chuukyuu「DKGをやめたのはあなた以外には?」


フェミナ氏「例の4人です。4人がいっしょにやめ、ともにテッド・ベイツ社に移ったのです。
テッド・ベイツに4人がそろって移った理由は、いずれは自分たちの代理店を持つようになった場合、それまで働いていたところが大きな代理店であるほうが、より有効ではなかろうかと考えたからなのです。
つまり、こういうことです。もしあなたが電通出身であれば、その後のあなたのことはみんな知っています。
ところが、人にあまり知られていない小さな代理店出身となると話は違ってきます。
あなたを知る人の数は、ずっと少なくなってしまうのです。
これが私たちのねらいだったのです。
私たちがテッド・ベイツに移ったのは、自己宣伝だけのためだったといってもいいくらいです。
大きな代理店出身ということが、この世界に住む人びとにとっていかに大きな関心事であるかという点を巧みに利用して知名度を上げることをねらったのです」


chuukyuu「この代理店が初めて獲得したアカウントは?」


フェミナ氏「一番最初のアカウントは、スクワイヤーと呼ばれる男性用のへア・ピースでした。
これは私にはもってこいの商品でした。というのも、私は、ご覧のように昔からハゲでいましたから」


chuukyuu「この会社がスタートして間もなくの規模といったものはどのくらいでしたか? たとえば、メンバーの数とか、クライアント扱い高といった面から見て---」


フェミナ氏「始めてすぐのメンバーといったら、パートナーの4人に秘書1人きりでした。
現在は、およそ75人のメンバーがいますが、このことだけを考えても私たちはずいぶん大きくなったわけです。
今の場所に移る前は、ちょうどこの向かい側に建っているビルに小さな事務所がありました。
最初のクライアントの広告予算は、年間4万ドルで、当時はその予算をすべてライフ誌に投じて大きな広告を1作だけ載せていました。
これは、ライフ誌に載ったわが社の広告第1号となりました」


22回も仕事を変えた末、コピーライターになった


chuukyuu「あなたのこれまでの略歴、生まれた年や土地、学歴、コピーライターになろうとした動機などを話してください」


フェミナ氏「1936年にニューヨークのブルックリンで生まれました。
学歴は、高校を卒業して夜学のカレッジに1年通ったっただけです。
子どものころから、広告を広告代社店に配ってまわるメール・ボーイの仕事をしていましたが、そのころはいつも、コピーライターこそ世の中でもっともイージーな仕事であると思っていました。
彼らが仕事としているふうには私の目こは映らなかったのです。いつもリラツクスにしていて、めったに机に向かうことがないのがコピーライターであると信じきっていたので。
私にはとても魅力のある仕事に思えました。
そんなことから、コピーライターになろうと決心したのですが、実際コピーライターの職を得るまでの道のりは決して短くはありませんでした。
私は、いろいろな職業を経験してきましたが、わずか2年の間に22回も仕事を変えたこともありました。
ですからまったく違った種類の仕事を幾つも幾つも経験しています」


chuukyuu「あなたのそういった経験から察して、社長でいる時とそうでない時とでは、何か違ったものを広告界で感じることかありますか?」


フェミナ氏「ありますね。サラリーを一つをとってみても、公平じゃないですね。(笑)
私がまだ、サラリーをもらう立場にいたころのほうがずっとよかったですよ。
最近、米国の広告代理店の人間関係は変わってきたと思います。
若い人たちが、その中心になりつつあるのです。
私は33歳で、私のパートナーは30歳ですが、この会社には、35歳以上の人はいないと思います。
ここにいるのは、仕事そのものにぞっこん惚れこんでいる人、夢中になって仕事をしている人ばかりです。
彼らは決して恐れていません。
かつて、コピーライターとアートディレクターもその他代理店で働く人たちは、社長をとても恐れた時代がありましたが、今の披らは違います」


chuukyuu「ここは家族会社みたいなんですね」


フェミナ氏「かなり、それに近いですね。私たちは、ほとんど毎晩午前1時、2時まで仕事をしています。
朝はもちろん早くから始まりますから、長い時間いっしょにいることになるのです。
みんながそれぞれの存在を認め合い、お互いに好感を持っています。
いい気持ですよ、こういうのは。
いっしょに食事をしたり、楽しんだり、ここでは音楽が絶えることはほとんどありません。
夜遅くホールにおりてみてごらんなさい、どんなに遅くても音楽が聞こえますから。
とにかく楽しいんです。みんな和気あいあいとやっています。
でも昔はこんなじゃなかったんですよ。
広告をつくることはたいへんな骨折り仕事であると人びとが痛切に感じていた時代があったのです。
もちろん今は違います。
私たちは解放されたのです。
制約されていると感じることはまったくありません。


>>(2)「才能あるコピーライターは自分の会社を持つべきだ」