創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(413)ベントン&ボウルズ社(1)

    『マジソン・アベニュー』誌から(1)

39年前、まったくの他力本願で、1冊大書を編んだ。『ブレーン別冊 マジソンアベニュー』である。
とりあえず、同ムックから[まえがき]を以下に転記し、趣旨をわかっていただこう。


1年に幾百人もの広告人がマジソン街をたずねる。また、幾千人もの人が米国の広告代理店について語る。それぞが真実を見、真実を語ってはいるだろう、しかし、全部を語りつくしているわけではない。群盲巨象をなでる---になっていなければ幸いである。
ところで、日本の広告人がマジソン街を語る時、必ずといっていいほど引用されるのがマーチン・メイヤーの『マジソン街U.S.A.』(邦題『これが広告だ』) である。
同書が出版されてから10年が過ぎた。古いといえば古い。マジソン街の変化は激しい。
新しい『マジソン街U.S.A.』はまだ書かれていない。もちろん、私にも書けない。そこで、メイヤーの文章が雑誌『マジソン・アベニュー』に連載されたものであることに目をつけた私は、同誌の最新号の記事を集めて、私流『マジソン街U.S.A.』を編集してみようと思い立った。
1970年4月にニューヨークをたずねて、編集長カール・ロジャース氏の許可を取り、仕事をすすめた。
日本の読者のために第二部の広告代理店編には、収録代理店から送られてきた代表作品をも加えた。
今後、ニューヨークをたずねる人、語る人の資料になれば幸いで本書の編集に当たって、ブレーン誌坂本編集長以下の方々のご協力をいただいた。改めてお礼を申しあげたい。


1970年10月15日  chuukyuu


ベントン&ボウルズ(B&B)社は、[第2部 代理店とその作品]10社に分類されている。
ちなみに、[第1部 経営者たち]にはジョージ・ロイス氏が12人の中に入っている。
B&B社の見出しは、「クリエイティブの新しい波---B&B」と勇ましい。 


そこそこに必要なクリエイエティブ要員をかかえた大手広告代理店が、一夜にして"クリエイティブ代理店"に変容することができるものだろうか。
今、それができるか、できないかの解答を見出す過程にあるのがベントン&ボウルズ社(B&B)で、その渦中にある人物がアルビン・ハンぺルである。
当年42歳。 もとヤング&ルビカムのコピー・チーフだった彼は、この仕事のために求められたわけだが、まさにこれは、彼に適任の仕事というべきだ。
これまでにもJ・ウォルター・トンプソン、マッキャン・エリクソン、オグルビー、コンプトン、テッド・ベイツなどの各社でも、ある程度同じようなことが試みられた。ただ、あまり成功しなかっただけである。
広告代理店の性格を変えるというか、少なくともそのクリエイティブな産物を大いに改善しようというのは、会社の雇い入れた人間に、一かばちか本当の権限を与え、さらにそれを支持してみるトップ・マネジメントの熱意の有無が鍵となる。
だが現在までのところ、クリエイティブの救世主を雇い入れた大手代理店でB&Bほど思い切った措置をとったところは一つもない。
ハンペルは新しいクリエイティブ・ディレクターを何人か彼のアシスタントにしたが、その中の一人にタフで人好きのするネッド・トルマックがいる。このトルマックは、これまでの経歴から見ても、前述の問題を語るに最もふさわしいアドマンの一人ということができる。彼はジェリー・デラ・フェミナと一緒に仕事をしていた当時、彼が現代的タッチと考えていたものをテッド・ベイツの一部広告に取り入れようと試みたことがある。不幸にしてこれは成功しなかった。その後コンプトンの広告にも同じことを試みて失敗した。だが現在の彼は、ハンぺルなら必ず彼の意図を成功させてくれるものと確信しているし、またなぜそうした確信が持てるかの理由も知っている。


【chuukyuu補】ネッド・トルマック氏は、デルハンティ・カーニット・ゲラー代理店を上記のJ・デラ・フェミナ氏ら3人とともに去り、デッド・ベイツ社の特別クリエイティブ部門に入った。その理由がふるっている。2年後に自分たちの代理店を立ち上げるには、大広告代理店出身というほうが箔がつくし名も売れると考えての行動であったと。しかし、ネッドは創立した自分たち4人の代理店を半年たらずで2人で出て行った。行き先はB&Bであった。


ネッド・トルマックと都合よく32階にある彼の部屋で長時間インタヴューする機会を得た。トルマックは、B&Bのベテランたちを彼の思うツポにはめて動かすのに手こずっただろうか。
「私が現在のポストに任命されたとき、2人の優秀な男が私の配下に配属されたんです」とトルマックは語る。
「この2人は、たまたまチームを組んでうまくやっていたんですが、その作品を5点ばかり私に見せて、どれがいいかというんです。そこで私は、君たちはいったいどういうつもりなんだ。君たちの仕事をこのおれにやらせようというのかね。さあ、 これを持ち帰り、2人でいちばんいいのを選んで改めて持ってきなさい。それが君たちの仕事じゃないのかね。といってやったんです。それ以来、じつにうまく行っていますよ」


B&Bのクリエイティブ部門の体質改善は、アル・ハンぺルにとっては黄金に匹敵する機会で、だれもが望んで得られるといううようなチャンスではなかった。
もちろんハンペル自身は、サラリーに関する世間のうわさを否定もしなければ肯定もしない。
だが信ずべき権威筋は、Y&Rで〔50歳未満〕の部に属していた彼のサラリーが、現在では8万5,000ドルあたりで、このほかに例の臨時収入があるはずと報告している。
クリエイティブ革命ともいうべきハンベルの現在の任務が成功すれば、それだけの報償があってしかるべきだろう。


1969年の初めごろまで、B&Bにいたという某著述家と語り合ったが、この著述家は、ハンペルがクリエイティブ部門を統轄するようになる以前の部内にみなぎっていた陰気な雰囲気を、こんな具合に説明してくれた。
「一部には非常に優秀なスタッフもいて、〔クレスト〕のプリント広告などは、至るところで賞を受けました。これらのスタッフは、アライド・ケミカルやクール・ホイップなどの広告でも受賞しているし、またバンパーズやナイキルのキャンべーンでも大いに成功したもんです。だが反面、どうにもならないクリエイターも大勢いたことは事実ですよ。アカウントマンの力には勝てないものだ、とだれもが信じきっていたんですから」

パンパース紙おむつ 「座り込み」


(アナウンサー)米国中で赤ん坊が大々的に座り込みをはじめています」と、時事用語「座り込み」を使い、赤ん坊がバンパーズ紙おむつの上にお尻を落としていくシーンを次々に見せる。パンパースのおむつは、いつも乾燥しているからすわり心地がよいためだという。「米国の赤ん坊よ、座り込もう」


B&Bは優秀な人材を引きつけると同時に、 こうした人びとを失うことでも有名だった。
たとえばボブ・ウイルバースとか、エド・マケイブとか、エミール・ガルガーノなども一時期はB&Bに籍を置いたが、いつの間にか姿を消している。


chuukyuu補>>エド・マケイブ氏とのインタヴュー


ハンペルが1969年6月にB&Bに迎えられた時、いちばん最初にやったことは、同社のクリエイティブ部門が長年にわたって頑痛のタネとしてきた管理者階層との複雑な系統を断ち切ることだった。
そして、コピーライターやアートディレクターたちが、うとましく感じていたクリエイティブ・レビュー・ボードが廃止された。
「こんなものは書類面だけのボードでもよいし、物によって分割したっていいのです。しかし、いずれの方法でもクリエイティブ・レビュー・ボードなどという存在はじゃまなものですよ」とハンペルはいう。
彼はさらに、過剰ぎみだったクリエイティブ・ディレクターとクリエイティブ・スーパバイザーのポストも廃止した。(文:ディック・ワッサマン 抄訳)



クリエイターたちとじかに話しあうハンペル氏(左)

(つづく)




今朝の始業10分のクリエイティブ・センス・アップ・ミーティングの装飾様式の最後の提示するのは、モダン・デザインのあとに一瞬あらわれて消えたポスト・モダンのサンプル。