創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(408)アル・ハンぺル氏とのインタビュー(2)

 ベントン & ボウルズ社
 取締役副社長兼クリエイティブ・ディレクター


このインタヴュー・シリーズは、2年間、業界専門誌『ブレーン』(当時の発行元:誠文堂新光社)に連載されました。一度の渡米で6人ほど取材し、計24人でしたから、4回の訪問で果たしたことになります。
目的は、コピーライターというクリエイターに必要な資質と運、努力と成果を聞き出すとともに、自分の鍛錬と読み手へのヒントを兼ね、と同時に、ニューヨークを中心にして起こっていた広告のクリエイティブ革命の姿を伝えることでした。
いま、若いクリエイターに当時のことを知ってもらうために、こうして再録し、プライバシーすれすれのところで、かなり巧みに聞き出していると自讃してみて、気がつきました。話し手がうちとけてくれたから成り立ったのだと。つまり、コピーライターという職業人は、相手を喜ばすサービス精神と賢明さの持ち主なんだということだったんです。


<<アル・ハンぺル氏とのインタビュー(1)


コピーライターになるには大学で文学を専攻せよ


chuukyuu「一般的にいって米国では、コピーライターにはどういう経路でなるのですか?」


ハンペル「特別なコピーライター養成所なんかはないといったほうがいいでしょうね。
コピーライターになるためのいちばんいい方法は、まず大学で一般教養コースに入り、それからたぷん、英語を専攻することになるでしょうが、いかにして言葉を紙面におけばいいか、できれば、いかにして自分自身を表現するかを学ぶことだと、私は思います。
でも、その後が大へんです。小売店であれ、小さな代理店であれ、広告を扱っている場所で自分の席を見つけ、コピーを書かせてもらうことです。これはよほど真剣に取り組まないと困難です。
私にはこれしか思いつきません。
コピーを教えるという機関は方々にたくさんありますが、それほど効果があるとは思えません。コピーを書くこと、コピーライターとして働くことで自習するよりほかはないと思います。これが最良の道ですよ」


chuukyuu「あなたご自身の経路は?」


ハンペル氏「私は大学時代に決心しました。これは珍しいことです。ほとんどの人はそうじゃないでしょう。
大学時代に広告コピーを書きたいと思ったのです。私は新聞部にいまして、コラムを書いていました。そして、この書くという才能を利用してもっともお金をかせぐことができ、かつ成功するには何がいいかと考えました。
そして、売るということと書くということが組み合わさったものがいいとおもいました。私は当時、パートタイムのセールスマンをしていましたから、このコピーライターという職業こそ、売るということと書くということのいい組み合わせだという結論に達したわけです。
自分の売る能力を書く能力に応用することこそ、コピーライティングそのものですからね。
だから私は、大学時代からこの道にはいりたいと思っていたのですよ。そして、まっしぐらにこの道に飛び込みました。
私の最初の仕事は、当時住んでいたニュージャージーの小さな代理店でした。週30ドルでした」


chuukyuu「お生まれになったのはどこですか?」


ハンペルニュージャージーのパターソンです。あそこは、かつて世界のシルク・シチーで、日本で生産された生糸のほとんどを織っていました。
ニューヨーク大学マーケティングのBS---広告関係の単位はほとんど専攻しました。
今の人びとは大学時代にほとんど広告関係を専攻していないでしょう。当時としてもまれでしたが---。
もう一度やり直せるのだったら、たぷん、英語か文学、あるいはリベラル・アートを選択するでしょうか---でも、この職業ばかりは、教えて教えられるものではありませんからね。大学では教えられないと思いますよ。
まず、広告に接しさせて広告とは何かを教え、まず興味を持たせることはできますが、大学でコピー・コースをとったからといって、コピーライターになれるとはいえないでしょう」


chuukyuu「お父上のご職業はなんでしたか?」


ハンベル「父は今でもテキスタイルマン(織人)です。父は、シルクのつむぎ手です」


chuukyuu「それでは、お父さんの職業と相い入れないで困ったでしょう?」


ハンペル氏「そうです。父はブルーカラー族ですからね」


chuukyuu「「どうやって説き伏せましたか?」


ハンペル氏「母はユダヤ系でして、そのためか、私が大学へ進んで、彼女の夫よりもいい仕事につくことを望んでいました。母は、私が父親よりも出世することを望んだのです。つまり、私はかなり貧しい環境の出なんですよ。
そして私たち一族には、教育を奨励する家風があったのです。母は私が賢い子だと確信していました。
母は、私が秀でていないととても悲しいと、いつもはっきりいっていました。ですから、私は学校では常にすぐれた生徒になるように努力を重ねました。すこしは生まれつきの才能もあったかもしれませんが、そういった状態に自分を持っていくには、やはりかなりの頭脳が必要ですからね」


chuukyuu「お母上が、あなたの原動力となってくれたわけですね」


ハンペル「母は私に刺激を与えてくれただけではありません。私が不らちな振舞いをした時には、彼女の恐ろしいライトフックがとんできました(笑)」


chuukyuu「それでは、お母上にすごく感謝していらっしゃるわけでしょう?」


ハンペル「私はとても幸せですし、両親もまた幸せです。実際のところ、彼らは、現在起こっているいいことにとても喜びを見いだしているようです。
私の書いたコマーシャルがテレビに出る予定の時はいつでも、母はいまだに友だちや親類の者に電話をかけて、観るように言うんですよ。それに、私のコマーシャルを放送しているすべての番組で、高視聴率をとっているのはどの広告主のものかなんていうこともね」


少年時代から、書くことが好きだった


chuukyuu「少年のころから、作文が好きでしたか?」


ハンペル「ええ、常に書くということが好きでしたね。そして、そのコツというものを心得ていて、作文の成績は優秀でしたね。それに、ユーモアの才もありました。みんながそういってほめてくれるので、私はいつも面白おかしいことばかり書いていましたっけ。
だから、私が関係してきたコマーシャルや広告などのほとんどが、ユーモラスな面から描かれていますね。
私は今では、ユーモラスなテレビ・コマーシャルのライターとして知られています」


chuukyuu「子どものころ、いちばん好きだった小説は?」


ハンペル「本ですか?? 冒険小説が好きでしたね。ヘミングウェイとかジャック・ロンドンなどを好んで読んだものです。本はたくさん読みましたよ。子どものころにはいつも図書館へ出かけていって、本の山をかかえで帰宅したものです。
私はあまり運動好きな少年ではなくて、ほかの子どもたちがポール選びをしている時でも読書をしていました。手に入るのは、なんでもすべて読みました。百科事典などを読みふけったものですよ」


chuukyuu「現在までの経過をできるだけ詳しく話してくださいますか?」


ハンペル氏「そうですね。私はとにかく、一生懸命に仕事に励みました。簡単なことではありませんでした。
この業界では、ただすわり込んでよいコピーを書くなんて簡単な仕事だといっている人がたいへん多いのですが。これは、この業界がこうむっている数多くの誤解のうちの一つだと私は思います。
私は、常にだれよりも、私が知る限りのだれよりも一生懸命に働きました。だれよりも長く働きましたし、仕事を家へも持って帰りました。私は決して自分のした仕事に酔ったり、満足したりするということはありませんでした。何度も破りすて、最初から書き直すということを重ねたものです。今でもそんなふうです。まるで完全主義者のごとくです。そして、たぶん私が現在あるのは、そのためだと思います。
もちろん、場所に恵まれ、時代に恵まれ、自分の仕事を重要人物に見てもらい、それが認められ、そして、自分の仕事をするきっかけをうまくつかめ、仕事上の忠実な部下を持ったという、多少の幸福が作用したことを認めなければなりませんけど」



クリエイティブ部門をつなぐラセン階段で、革新者ハンペル氏(中央)が女性ライター(左)とアソシエイト・クリエイティブ・デイレクターと語り合う。


私たちはこのあと、かけ出し時代にだれもが持つ不安、自分の周囲の人がみんな偉く見えるという不安から、いかに抜け出して、自分自身を立派なコどーライターに完成させるか---という問題を話し合いました。


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