創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(396)『アート派広告代理店---その誕生と成功』(6)


ウェルズ・リッチ・グリーン社(1)


若いころ、愛読した本にツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』があります。鵺(ぬえ)のようにフランス政界を泳ぎぬけた男の伝記です。その中に「歴史は修身の教科書ではない」という、あまりうれしくはない名言がありました。「政治は修身の教科書を掲げてはいるが、教科書を守りはしない」ともいいかえられますし、「ビジネスは修身の教科書ではない」との置き換えもできます。「広告は?」


扉のページ


金髪美人で、独身で、
頭が良くって
遊び上手な女性社長


美人であることが広告界ではどのように有利に働くか---を書くとすれば、現在(1966年当時)の広告代理店の社長のなかでは、「いちばん美人」とニューズウィーク社(1966年10月3日号)に折り紙をつけられたウェルズ(Mary Wells)夫人の魅力分析から始めなければなりません。
そういえば私がウェルズ夫人に会いたがっていること知ったかつて彼女の同僚であったP夫人が、
「メリーはすてきな女性よ。ほとんどの男性がメリーのとりこになってしまうわ。chuukyuu、あなただって危いものよ」
と注意してくれたものです(後記:感度が鈍いのでしょう、まったく危なくはありませんでした)。
38歳(1966年当時) 金髪。1965年に離婚して再婚した1967年までは、マンハッタンのイースト・サイド(高級住宅地)の9部屋もあるアパートに養女にした2人の少女とともに住んでいて、1966年の4月に、ウェルズ・リッチ・グリーン(Wells Rich Greene)社を創立する直前までいたジャック・ティンカー・パートナーズ(Jack Tinker & Parttners)社での年俸は8万ドル(2,800万円)。そして、彼女自身がいうように、金髪で独身でいるため常に「一緒に仕事をする男性と危険な幽係がある」といった種類のゴシッブのタネにされてイライラする)。
「chuukyuu、こちらがメリーだ」
リッチ(Dick Rich)氏がそういって私を紹介し、私たちは握手しました。
彼女の華奢な掌を握りながら、私はウェルズ夫人のチータのそれのように滑らかによく動く瞳をみつめました。
そして私は思ったのです。
「結局は美人だからって、どうってこともあるまい」
(ウェルズ夫人は、1967年暮れ、同社のクライアント一つであるブラニフ・インターナショナル航空の社長と結婚してハーディング・ロレンス夫人となったのですが、ビジネス・ネームのほうはあいかわらずメリー・ウェルズです。この結婚は、彼女を『アド・エイジ』誌の1967年の『米国広告界10大ニュース・メーカー』の1人にあげさせてしまいました。ですから、この章では、ウェルズ夫人の美しさについては書かないことにします)。
1965年4月。南西部に限られた評判をもち、堅実ではあるけれどたいしたキャリアをもたないブラニフ航空の社長に、新しくロレンス(Hardlng Laurence)氏がに就任し、広告方針をジャック・ティンカー社にたてさせることにしました。ティンカー社でこのプラニフ航空を担当したのが、アルカ・セルツァー(頭痛・宿酔いの薬)の広告キャンペーンで名をあげたウェルズ, リッチ, グリーン(Stewart Greene)の3人です。
ウェルズ夫人は、ブラニフに、全く革命的な何かが必要であると判断しました。
「航空会社はみな同じです。彼らは同じような飛行機にあなたを乗せ、同じような方法であなたを目的地まで運びます。私たちは、人を夢中にし、あれはなんだろうと言わせるような、何かを必要としました。そしてある日、 これが頭に浮かんだのです」
これ---というのはジェット機の胴体を7色の違ったパステル・カラーに塗りわけることでした。彼女は、アレキサンダー・ジェラルドに機内装飾を依頼し、イタリアのファッション・デザイナーのエミリオ・プッチにスチュワーデスの風変りな新しい制服をデザインさせました。
ロうるさい旧弊な広告人たちの「イースター・エッグ(復活祭の色塗り卵)航空会社」とか、「塗装を重ねることはジェット機のスピードに悪影響を与えると聞いているんだがね」とのやっかみ半分の噂にもかかわらず、ブラニフ航空の1966年の前半6ヶ月間に売上げが41%、利益で114%増と、業界全体の乗客数の伸びの2倍もの成果をあげてしまったのです。
ロレンス社長もはっきりと、 「この新流行のキャンペーンがなかったら、たぶん私たちはこんな成果をあげることはできなかったでしょう」とキャンペーンの効果を認めています。


WRGの創立には海賊的行為の
疑いもあるけれど・・・・


ところで、WRG (ウェルズ・リッチ・グリーン) 社の問題は、このブラニフ航空にあるのです。
1966年4月1日、 ウェルズ夫人がまずティンカー氏に辞表を出し、その翌日も、リッチ氏とグリーン氏が辞表を出し、数日後に3人はウェルズ夫人のアパートに集まっておのおのにかかっている新しい仕事ロのことを比べ合いました。そのとき、リッチ氏が、
「いっそのこと,3人で新しい広告代理店をやってみては---」
ときり出したのがきっかけになって、各自が3万ドル(1,080万円)ずつ出資し合うことになったといわれています。そして、五番街のゴーサム・ホテルの4室続きの部屋を借りて開店しました(ジャック・ティンカー社もホテル内で店を開いたことと、あるいは関係しているかもしれません)。
そして4月5日、ブラニフ航空が650万ドルの広告予算をウェルズ・リッチ・グリーン社にジャック・ティンカー社から移して, この誕生したばかりの代理店の最初のクライアントになったのです。そればかりかブラニフ航空のロレンス社長は新しい代理店の財政を配慮して、ケミカル銀行ニューヨーク・トラストに10万ドルまでの融資ワクをとりつけてやりました。
ここで考えられることは、1966年4月でジャック・ティンカー社とのブラニフ航空の契約が終わることをウェルズ夫人やリッチ氏たちは知っていたわけだから、ブラニフ航空を最初から予定して代理店を設立したのではないか---ということです。
リッチ氏は「シカゴ・ヘラルド・トリビューンが4月5日にインタビューにきたとき、初めてそのアカウントがはいったことを知りました。ブラニフを得た感想を求めてきたときです」と言っていますが、どんなものでしょう?
ウェルズ夫人も、ブラニフのロレンス社長とともに公式会見に臨んで、「もしブラニフが私たちのクライアントにならなかったら、大打撃を受けたでしょう」と発言したにもかかわらず、いかなる事前謀議もなかったと断言しています。
なぜこんなことにこだわるかといいますと、新しい広告代理店をつくるとき、あるいは代理店の幹部が勤め先を変えるときに、前にいた代理店のクライアントのいくつかを持ち出す「海賊的行為」が広告界では常識のように言われていますが、これは事実かどうか、また、そうした行為は米国ではどういわれているかを調べるためなのです。
実際に私がニューヨークで耳にした2つのエピソードをまず紹介しましょう。
1966年春、PKL代理店のロイス(George Lois)前筆頭副社長と話し合ったとき、彼がDDBを辞めてPKLを創立したときのことに関して、
「ぼくは、何も悪いことをしなかった。そうでしょう? だって、DDBから一つのクライアントも持ち出さなかったんだから」
と強調しました。そのとき私は、なんの気もなく聞き流していましたが、1966年晩秋、再びニューヨークを訪ねて会った数十人の広告人の中のひとりが、ロをきわめてウェルズ夫人とリッチ氏のことをののしり、「悪党が3人集まったのがウェルズ・リッチ・グリーン社さ」ときめつけたので、「ハハーン」と思いあたったのです。その人はウェルズ夫人ともリッチ氏とも一緒に働いたことのある人で、はじめは人柄のことを指しているのかと察していたのですが、話しているうちに、彼ら3人がブラニフ航空をジャック・ティンカー社から持ち出したことを攻撃していると気づいたのです。
この2つのエピソードから、クライアントを持ち出す「海賊的行為」は、米国ビジネス界においても、まともな人間のやることではなく、やったとすれば「悪党」呼ばわりされても仕方がないことがわかりました。
ですから、ウェルズ夫人もリッチ氏も、ロをそろえて事前謀議を否定しているのでしょうね。公平な立場にあるニューズウイーク誌も、事前謀議の事実が確証できれば、ジャック・ティンカー社は3人を背任行為として告訴できる、書いています。
告訴といえば、66年末、PKLを辞めたクラーク・オイル担当のテレビ部長ジム・ウォルシュ氏、ADのボブ・フイオール氏、コピー・スーパバイザーのマイク・チャペル氏、アカウント・スーパバイザーのバーナード・エンデルマン氏が、200万ドルのクラーク・オイルを最初のクライアントとした新しい広告代理店をつくろうとしたとき、PKLのパパート会長は「もし4人のやっていることが事実であれば、告訴する」と声明しました。
広告人のこうした「海賊的行為」が実際に裁判沙汰になったケースも1966年にすでに起きており、実業界では訴訟が当然のことがらが不問に付されてきた広告界も、ようやく姿勢を正しはじめたともいえます。
それはともかく、広告界のモラルが確立されてきますと、広告代理店を新しくつくることは困難をきわめてくるように思えますが、リッチ氏がいみじくも言っているように、「私たちが(ジャック・ティンカ-社時代に)ブラニフ航空のためにやってきたことをみれば、ブラニフなり、また他の航空会社が私たちのところへ依頼にこないなどということは考えられません」ということで、その過去においてすぐれた広告をつくった人であれば、無理してクライアントを持ち出さなくても、目のあるクライアントはやってこよう・・・というものです。


chuukyuuアナウンス】くれぐれも、42年前---まだ、見方が未熟であったころに書いたものであることをおわすれなく。


>>(7)