創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(317) ボルボの広告(11)


ボルボ』の本を書いていたころ---37歳から次の年にかけてですが、心がけていたこととの一つが、明快で読みやすい文章でした。コピーライターだから、とうぜん、ですね。具体的には、1行の漢字とひらかなの割合を3対7までにとどめる。できれば、2対8にもっていく。カタカナは漢字1/2と計算する---のもそうでした。当時の書物には漢字が多かったですからね。努力の結果もあって、40年後のいま、こうして、一字一句変えないで引用していても、古くさい外見ではないとおもうのですが、いかがでしょう?



第1章 ガブリエルソンの30年間
2人の男が出合ってから---(つづき)

自動車の主要部品が鋼鉄でできており、したがって自動車産業が多量の鉄を消費することは、よく知られている。ガブリエルソンが3番目の条件として「スウェーデンの鋼鉄(スチール)は世界的にその名が知られている」事実をあげたのは、このためである。
スウェーデンの鉄鉱石は、銑鉄、鋼鉄は、世界市場で大きな売上高を示しており、鉄鉱石を産出し、製鉄をもしている国に対してさえ、スウェーデンは多量に輸出していた。全世界の人びとがスウェーデンの鋼鉄は他の国のものよりも良質であることを知っていた。専門家たちも、スウェーデン鋼の品質分析をやっていた」
と、ガブリエルソンは書いている。
スウェーデンの鉄鋼生産は、世界で17位にすぎないが、その鋼塊の総生産量の4分の1が特殊鋼であることを考えると、この数字は、他の鋼鉄生産国に比べると非常に高いものになる。
スウェーデンの製鋼は、17世紀の木炭鉄のころからの品質的にも有名で、18世紀の半ばごろには鉄生産で世界をリードし、世界総生産の40%を占めていた。
木炭の代わりにコークスが製鉄に利用されるようになるにつれて、石炭、コークスの産出量が少ないスウェーデンの製鉄業者は困難に直面したが、新しい製法を開発、採用するとともに、普通鋼生産から上質の特殊鋼生産に方向転換をして国際競争力を高めた。
スウェーデンの特殊鋼のすぐれた品質は、その純度、不変形性、耐久性、その他の物理的特性によるといわれている。

  • 「洗濯板」道路を走るための車

スウェーデンの道路状況について最近(1967前後)の事情は、あとで96ページに詳しく報告するとして、ガアブリエルソンが、「スウェーデンの道路は、悪い。この悪路のためにつくられた車が求められている」と言った当時、すなわち、1920年代の道路について、
「米国の道路に比べると、スウェーデンの道路は、悪かった。スウェーデンで売られていた車のほとんどが、まっすぐのコンクリート道路を走るためにつくられたものであった。スプリングが柔らかく、高速運転には適していたが、スウェーデンの曲りくねったデゴボコの砂利道を走るためには、ふさわしい車とはいえなかった。必要とされていたのは、もっと硬いサスペンション(車体懸架装置)でロードホールディングの良い車であった。スウェーデン人ならだれでも、当時の〔洗濯板〕道路を思い出されるであろう。そういう道路でも揺れないで走るのは、ほんとうに頑丈な車だけであった」
と述べている。
この記述を読みながら、私は、私自身が経験したあることを思い出した。昭和35年(1960)に、私はその年に発売されたニュー・コロナの広告に関係していた。それまでのダルマ型コロナの印象をデザイン的にも一新したニュー・コロナは、機構的にも新しさを備えていた。その一つがサスペンションのトーション・バー(ねじり棒バネ)で、柔らかな乗り心地を広告していた。
ところが、逆にこれが日本のデコボコ道では柔らかすぎて「腹をうつ」との苦情が寄せられて、技術関係者の自慢の設計も一年たらずで、より硬いありきたりのサスペンションに変更せざるを得なくなってしまった。
いま(1967年当時)から考えれば、ニュー・コロナの設計陣は、来るべき高速道路走行時代を予想してトーション・バーを採用したのであろうが、残念ながら、当時の日本の道路事情も、1920年代のスウェーデンの道路なみの〔洗濯板〕道路---もっと正確にいえば「陸の玄界灘」道路が多く、せっかくの新工夫も実際的ではなかった。つまり、道路にあわせた車の設計---というガブリエルソンの考えは、正しかったのである。

  • ガブリエルソンの人材スカウト

さて、こうして2人(ガブリエルソンとラルソン)は、自動車製造という、うまくいけば輝かしい未来が待っている難事業に乗り出す。ガブリエルソンが言った。
「ねえ、グスターフ(ラルソン)。今夜を記念して、われわれの計画がうまくいったら、来年の今夜も、ここで伊勢エビを2人で食べようよ」
そして、この楽しい習慣は、1940年代まで毎年つづいた。というのは、1940年代の終わりになると、ボルボの他の古参者たちが、この宴会に加わるようになったからである。
ところで、ラルソンのほうは、ストックホルムのカフェでの偶然の出合いが2人の運命を決めたと信じているようである。公的記録にも、彼はそう書いている。だが、私はそうは思わない。ガブリエルソンは、そのことには一言も触れていないが、私は、ガブリエルソンが網を張ったのだと思う。
たとえば、1941年(昭和16)のある晩のことだ。ガブリエルソンは、ストックホルムの映画館の前に立って、悠然と人混みをながめていた。しばらくそうしていたが、34,5歳の男が、美しい細君と2人の子どもを連れては切符を買うために行列に加わったとき、その男の肩をたたいた。
「エンゲロウさんですね? ボルボのガブリエルソンです」
当時、ガブリエルソンの名は、スウェーデン中の新聞や雑誌ですでに知れ渡っていた。(有名なボルボの社長って、この人なの---)と興味ぶかそうにガブリエルソンを見つめるエンゲロウ夫人に、彼は人好きのする微笑を返して、
「やあ、奥さまでしたか。ちょうどよかった、ごいっしょで。映画の開幕が近いようですから、単刀直入に申しあげます。私どもボルボ・グループの一つであるフリーグモーター社(航空機エンジン製造)の技術部長としてご主人をお迎えしたいのです」
エンゲロウ夫妻がこの意外な申し出に返事ができないでいると、ガブリエルソンは「考えておいてください」と言って、なにごともなかったような悠然とした足どりで去っていった。
それから2年間、エンゲロウにガブリエルソンは連絡をしなかった。そして。今度は、フリーグモーター社の椅子を用意してエンゲロウ家を訪ねた。ギュンナール・エンゲロウは、1943年(昭和18)から1956年(昭和31)までフリーグモーター社の社長を勤め、ガブリエルソンがボル・グループの社長を辞めたとき、その後任者に指名された。
これは、まったくの私の推理なのだが、ラルソンとガブリエルソンがカフェで出合わなかったとしても、やっぱりガブリエルソンは伊勢エビを用意してラルソンはしを招いたであろう。彼にはラルソンが必要であったのだ。

  • まず、市場価格が決まった

ラルソンが、自動車に興味をもった若いエンジニアたちと、スウェーデン史上初めての国産車の設計に熱中しはじめ、時どき顔を見せるガブリエルソンに、
「エンジンは4気筒にしたよ、アッサール」
とか、
「やっぱり、28馬力はほしいね」
と逐一報告するのを、彼は黙ってうなずきながら、
「ねえ、グスターフ。この車の市場価格だ゜けどね---」
こともなげに、ある値段を耳うちした。伊勢エビを食べてから1ヶ月も経っていなかった。販売予定価格が決まれば、おおよその仕様と、使っていい部品が決まってまくる。設計者たちは、自分たちの夢ばかりを追ってはいられなくなった。
しかも、ガブリエルソンが内示した価格は、あらゆる部品の仕入れ値を検討しつくした上でのものであったから、ラルソンたちも反対できなかった。
ガブリエルソンにしてみれば、世界各国の自動車の創始者たちが趣味的に車を設計し、結局は彼らの名を冠した車だけが別の事業家に引き継がれてしまっているようにはしたくなかったのだろう
だから彼は、1925年(大正15)7月---つまり、伊勢エビを食べてからちょうど1年後にできあがった試作車のための青写真を前にして、
「この車は、10台つくろう」
とはっきり言いきった。9台のオープンカーと1台のサルーン型が予定された。
ガルコ社の技術部長の椅子を捨てて自動車の設計に没入したラルソンには、その1年間、収入がなかった。若い協力者たちへの給料を払うために、ガブリエルソンは蓄財を投げだすなど、大きな犠牲を払った。10台の試作車をつくるのも、資金的には苦しかった。けれど、ガブリエルソンは、10台つくることを主張した。


>>続く


10,000ドルもはたいて買った車。
当然どんな所でも平気乗りこなせるべきです。


ハイウェーを首尾よく走り抜いた人なら、当然、凸凹道を迂回することなんて考えないはず。
ところが今日の高級大型車の多くは、市道や裏通りよりもカントリークラブのドライブウェー用に作られているかのようです。優雅な新車、ボルボ264は、常識的な金持ちの車ではありません。豪華なだけではなく、虐待しても平気なように設計されています。
スプリングと支柱併用した新型のフロント・サスペンションは振動を吸収し、横ゆれを少なくし、安定させます。何千というスポット溶接(ひとつひとつが車の自重を支えられるほど強力)でボディを固め、堅固で静かなユニットに作ってあります。
ボルボ264は非常に軽快です。燃料噴射式オーバー・ヘッドカムのV6は新種の軽量合金が使用してあるので軽量です。(264は新車の「小型車」、キャデラック・セビルより1,100ポンド軽く、30cm短い)。
もちろん価格面も4,000ドル近く小型)。
264GLもボルボの中で最も豪華な車のひとつ。
座る場所はどこもかも皮張り。ヒーテッド・ドライバー・シート。パワー・フロント・ウインドー。サンルーフ。そして冷房装置つき。
だから高級車をお買いになるつもりなら、ボルボ264をご検討ください。
最高級車を買うために一生懸命に働いてきのです。最悪な道でも平気な車を買う資格がおありのはずでしょう。


ボルボ 264
考える人たちのための車


媒体『アトランティック』1976年4月号




WHEN YOU SPEND $10,000
FOR A CAR, YOU SHOULDN'T BE AFRAID TO DRIVE IT.



Any man who has traveled the highway to success shouldn't feel he has to detour around potholes.
Yet it seems many big, expensive cars today are better prepared for country club driveways than city streets and back roads.
The elegant new Volvo 264 is not your commonplace rich man's car. It offers more than luxury. It's engineered to afford you the privilege of abusing it.
A new front suspension combining springs and struts absorbs jolts and increases stability by reducing roll. Thousands upon thousands of spot-welds (each one strong enough to support the entire weight of the car) fuse body and frame into one solid, silent unit.
The Volvo 264 is extremely agile. A new light alloy, fuel-injected overhead cam V-6 cuts weight.
(The 264 is 1,100 pounds lighter and almost a foot shorter than the new "small" Cadillac Seville. Not to mention almost $4,000 smaller in price.)
The 264 GL is also the most lavishly equipped Volvo we make. Leather everywhere you sit. A heated driver's seat. Power front windows. Sunroof. And air conditioning.
So if you're thinking about buying a luxury car, give some thought to the Volvo 264.
You've worked hard to afford the best. You deserve a car that can take the worst.


VOLVO 264
The car for people who think.


The Atlantic, April, 1976


>>続く