創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(284)DDBが選んだDDB ・・・【DDB紹介[終末宣言]】(10)

今朝の発見(私事メモですが、ご容赦)---一昨年の暮れに入れ替えた、複合プリンタ(エプソンカラリオPM−A820)のスキャニングが5,000枚を越えた。このブログともう2つのブログのための作動。22ヶ月ほぼ660日で---。2万円をきる価格だったから、1枚4円!ヤッタァ。今日のフィリス・ロビンソン夫人があげた自選のTV−CM2本は、観たことがない。これのあり場所を探してくるのは、ぼくの仕事ではなく、若い世代のクリエイターがやることであろう。ロビンソン夫人は、DDBの創業時からいた人---女性の年齢をいっては失礼かもしれないが、28,9歳で創業に加わったとして、30周年では58,9歳。名作CF『動物園』の愛娘は6歳前後とみて、30歳代後半の出産。才能ある女性の一つの生き方を示した。ぼくのインタヴューもあわせてお読みいただきたい。


>>DDB紹介[終末宣言]クリエイターインタビュー集目次


「『スゴイ広告を作れ』という以外には、何ひとつルールがなかった」
  VP兼コピー・スーパパイザー(DDB創立時から13年間コピー・チーフ)
  フィリス・ロビンソン PHYLLIS ROBINSON


:DDB設立当時は、女性のコピーライターは珍しかったですか?

ロビンソン:いえいえ。私が子供の頃、広告に興味を持ったのは、そもそもがキンベルズ(ファッション百貨店)とメーシー(百貨店)の戦争---すなわちパーニス・フィッツギボンとマーガレット・フィッシュバックの戦争---がきっかけでした。

彼女たちの広告を読むのがあまり楽しいんで、14才の時にコピーライタ-になるって宣言したくらいです。
当時の女の子たちは先生、看護婦、女優などになるのが夢だったのを思うと、変わってはいましたが。

:彼女たちが女性であったことで感動なさったわけですか?

ロビンソン:いいえ。彼女たちの仕事が気に入ったのです。そしたら、たまたま女性であったわけ。それに広告代理店には、ほかにも、ジーン・リンドローブなど大物の女性がいました。
それなのに、J・ ウォルター・トンプソンでは食堂に女性専用コーナーを設けているなんて話を耳にしたこともあります。

また、女性はスープとかおむつ、化粧品だけを書いていればいいといった風潮もありました。でもそれは、私たちの手で打ち破りました。
私はどんな物でも、あらゆる物を書きました。
創立当初は私がIt、即コピー部だったからです。

:そして最初の13年間、コピー・チーフを勤めていらっしゃいました。楽しかったですか?

ロビンソン:ええ、とても。代理店建設に大いに貢献しましたから。
それに人びとを育てる機会にも恵まれました。
私の人生で最も収穫の多い期間と言えます。まず、人びとを選び、埋もれている才能を発掘し、そしてそれを育て、花開くの待つ---。

:あなたが雇った人たちの名をあげてくたさい。

ロビンソン:最初の13年間に雇われた人は、すべて私が雇いました。デイブ・ライダー、ボブ・レブンソン、ロン・ローゼンフェルド、メリー・ウェルズ、ポーラ・グリーン、ジュリアン・ケ一ニグ、ロール・パーカー(彼女の場合は、1度ならず、2度も雇いました)。

chuukyuu注】ロビンソン夫人のチルドレン・名コピーライターたちとのインタヴューは、このプログのトップ・ページの本日分の外・上の窓目次[クリエイター・インタヴュー]をクリックで、お読みになれます。


もちろん、この人たちは、すべてて何がしかの経験はありましたが---デパートの広告、小さな代理店など、とてもやりがいのある、しかしまた心身ともに疲労する仕事でした。
自分の仕事をやりながら、それをしたのです。とにかく「スゴイ広告を作れ」という以外には、何ひとつルールがなかったのですから。

:そして13年たって?

ロビンソン:もう十分やった、と思いました。
それ以来、ピンチに頼まれる時以外は、ライターに専念することにしました。

:今も、心身ともに疲労しますか?

ロビンソン:広告の創造は、とても楽しく、たいへん愛しています。でも後は---それは結婚とか、子育てとか同じで、楽しくもあり、やりがいもあれば、反面つらさもあるといったところでしょう。やりがいはあるけれど、仕事でもあるわけですから。

:自選の広告に、ポラロイドのオリビエのコマーシャルとナイスンイージーの「私を私にしてくれる」をお選びになった理由をお聞かせください。

ロビンソン:当時のほかの広告と全く違っていたからです。
SX−70はほかと大きく異なる製品であったため、その製品に釣り合う広告で、しかも誇大でなく、信びょう性があるように聞こえる広告を創造するのがたいへんでした。

私はローレンス・オリビエ(Laurence Olivier)にしか演じられない、出せない雰囲気を思いつきました。

そして幸い彼を使うことができたわけです。あのキャンペーンを選んだのは、製品の発売---フィーリング、言葉、(そしてボブ・ゲイジと)広告のスタイルの設定など---にかかわりを多く持ったからです。



「私を私にしてくれる」の場合は、また別です。ナイスンイージーの売り上げが非常に鋭い落ち込みを見せていた時、私たちがクレアロールにそのアカウントをくれるよう説得したんです。
基本線---自然さ---を変えることなく、私たちはドラマチックな上昇線を描かせることに成功しました。
若い購買層をネライ、違った言葉---若者が自分たち自身,人生を語る言葉だけでなく、キャスティング、シチュエーション、服、音楽、なども含む幅広い意味の言葉---で話しました。

あれは 1960年代の革命のはしりだったと思います。今あの一連のスポットを見ると、さほど画期的でも、珍しくもありません。
でも当時としてはあまりに画期的で、クライアントに売るのにとても骨が折れました。
リサーチは絶望的でした。カリフォルニアの老婦人の手のひらの汗が適切でないとか、なんとか。反応もひどいもので、「TVであんなひどい女性なんか見たくない」なんてものが多かったです。



今思うと,おかしな話ですけれど。
あのアプローチ---パーソナルな調子、スタイル、自由な感じ、自発性---はあまりにしばしばコピーされてきて、今日では月並みになっていますからね。
あれは社会の変化、未だ気配というくらいの変化、をたくみにとらえて、製品に利用したケースでした。

:あなたの作品は常にフレッシュで、未だ気配にすぎないくらいのフィーリングをとらえ、製品にみごとに応用しています。一種の技術ですね?

ロビンソン:常に自分をとぎすまし、自己に生き、生長していくことです。それは技術だけをみがくのではなく、常に学び、見、考え、観察し、吸収する姿勢をなくさないことです。



ポラロイド『動物園』


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