創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(268)ダヴィッド・オグルビー氏とのインタヴュー(2)

もう、40年以上も前になろうか、松岡茂雄と名乗る大阪の青年からダヴィッド・オグルビー氏の新著を共訳しないかという提案があった。条件は翻訳はほとんど自分がやるから、出版社を探せ---というようなことであった。よほど、オグルビーに惚れ込んでいたに違いない。ダヴィッド社に話をつないだ。その本の書名は『ある広告人の告白』。7刷ほどもいって広告業界の一大ロングセラーとなった。クリエイターよりも、広告代理店の社長連のほうが感動したのである。「これで広告業の地位が上がるかもしれない」と。その本の中でオグルビー氏はこんなことまで公開していた。将来、自分のところで広告を扱いたいと思っている想定大企業10社(IBMなど)のトップあてに、毎月、自社のその月の制作作品を添えて、「いつかは貴社の仕事ができるようになるために努力している」とのを手紙を送りつづけたと。10年後には10社ともオグルビーのクライアントになっていた。10年、1ヶ月も欠かさなかったのもすごい。ゴルフ接待も贈り物もしない---真の大人(たいじん)のやり方ですな。今日の入力には、コピーライター2年目の染川優太さんのお力を借りている。
松岡くん? 大阪で、広告制作プロダクションのクリエイター兼経営陣として活躍した後、いまは、ゆうゆうとロダンの研究と自慢のテノールを発表(そのときのCD)して人生を楽しんでいる。


>>ダヴィッド・オグルビー氏のインタヴュー 目次


 時間はありますか?
オグルビー たっぷりあるので、多くのアイデアを考えたり、多くのコピーを書いたりもできるわけですが、私はしません。
むかしほどいいアイデアやいいコピーができないからです。その理由はいろいろありますが、一つには、私が39歳でコピーを書きはじめたとき、広告について、現在のように知らなかったのです。
訓練も不足していました。
いわば「めくら蛇に怖じず」の諺のように、広告について無知だったわけです。


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また調査から来るきまったやり方も知りませんでした。だからオリジナルな仕事がたくさんできたのだと思います。
つまり大部分のコピーライターは、私もふくめて、40代より30代のほうがいい仕事をするし、50代より40代のほうがよいということです。50の坂をこしても多産なコピーライターはきわめてまれでしょうーー私は53歳です。


(ここでオグルビーは一息いれて、アパッチ・インディアンが首に巻くような赤いハンカチで鼻をかんだ。クラシックな型に仕立てたグレイのツィードの背広の下に、よく似合う真赤なサスペンダーをしていた)


こんなこともあります。広告やテレビのコマーシャル用にコピーを書いたり、アイデアをだしたりするために頑張らなければならないとき、しかもカラでなにも出てこないような気がするとき、いくつかの手があります。
私もそうですが、少し飲んだときにアイデアがでる人がおおぜいいます。私は2,3杯ブランデーか、ワインを飲んだほうが、ずっと調子よく書けます。音楽を聴いても、リラックスに書けます。「オックスフォード引用句辞典」を15分間も見ていると、いろいろなアイデアがつぎつぎに浮かびますね。
 人によっては、書きはじめる前にちょっと儀式めいたことをやるライターがいますね。たとえば、列車の車掌の帽子をかぶって、窓をじっと見るとか。あなたは、音楽や2,3杯のブランデーを創造の奔流が流れるための手助けに使うといわれましたが、それは儀式的な意味でですか?
オグルビー そういうわけではありません。
とにかくいまは手紙一本さえ、オフィスでは書けないありさまです。電話にでること、ミーティングに出席すること、他の人の仕事を見ることだけで、手いっぱいです。
書くとなれば、家でやるより他にありません−−−夜かウィークエンドか早朝です。5時か6時に起きて、朝食までにいいコピーが書けたこともあります。
ここ数年、私は代理店の社長であり、現役のコピーライターとして雇われているわけではありません。私たちの代理店には50人のコピーライターがいますから、私は気を使わなければならないのです。
私のおもな仕事の一つは、彼らにいいコピーを書かせることだと思います。もし私がいつも彼らの中にはいって、自分でキャンペーンを書けば、担当のライターたちと競争することになり、けっして彼らにいい影響をもたらさないでしょう。

(ここでオグルビーは、ちょっと脱線して、これまでに賞をとったライターたちの評判などについて話した)

もちろん名誉殿堂のような賞を得るまでには、コピーライターとして、名を成す必要があります。つまり一般的にいえば、コピー部門を卒業しマネジメントの人間として個室のドアに名前がでるようになるか、さもなければ、コピー以外のことで広告界で有名にならなければなりません。
名誉殿堂にはいった人たちと話せば、大部分はもう実際のコピーライターではないことがわかるでしょう。もしかつてコピーライターであったらの話ですが。
私は自分でコピーライターだと思いたいのです。「広告人名録」には、だれでも自分の伝記を書くわけですが、私は「会長」ではなく「コピーライター」と書いておきました。私はコピーライターだと思うのが好きだし、いまでも曲りなりに、そうだと思いたいのです。
ところでもう一つ。私のような立場にある人間によく起こることですが、私たちの代理店の作品ではあっても私自身は全然タッチしなかった作品について、その名誉をいつも私たちが与えられることです。
「すばらしい広告だ。だれがやったんだろう」という話になると、だれかが、オグルビーだとか、バーネットだとか、バーンバックだと答える。これはどういうことでしょう。知らないからです。
そうした場合の9割までは、私が自分でやったのではなく、バーネットやグリビンやバーンバックについても同様だと思います。それは代理店のだれかがやったのであり、ひどいサギのような気がします。他人のアイデアで名誉を受けるなどということを、故意にやるのではないのですが、成行き上そうなってしまうわけです。これは、なんとか止めたいと思っています。
近ごろ、代理店のトップになったら、コピーを書くのは、スッパリやめたほうがいいと思うようになりました。すごく腕の立つコピーライターだったレイモンド・ルビカムも、私が代理店をつくって間もないころ、今後は絶対にコピーを書くなといいました。私も他の人にそういいたい。彼のいったことは正しいと思います。

(オグルビーは慎重に立ちあがって、ゆっくり部屋を横切り、炉の中のくすぶっている木を押しこんでから、椅子にもどった)

ちょっとがっかりしているのですが、1ヶ月ほど前に、自分ではすごくいいと思うコピーを書いたんです。一生懸命やって、それを書くために半分徹夜したほどです。傑作だと思ったのです。現在クライアントに提出してありますが、まだOKがでていないし、どうもOKにならないらしいのです。こんなことは、大部分のコピーライターにとって毎日のことでしょうが、私にはまったくはじめての経験です。いままでは、書いたものが全部印刷になったからです。だから、今後書きつづけたものかどうか迷っているのです。 つづく