創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(267)ダヴィッド・オグルビー氏とのインタヴュー(1)


42年前---1966年。東京コピーライターズ・クラブの若手有志(awaの会)による1冊の本が上梓されました。『5人の広告作家』(誠文堂新光社)。米国でコピーライター〔名誉の殿堂〕入りを果たした5人の大物コピーライターに、週刊『アド・エイジ』誌の先任エディター・D.ヒギンスが行ったインタヴューをまとめたものでした。登場したのは、ウィリアム・バーンバック、レオ・バーネット、ジョージ・グリビン、ダヴィッド・オグルビー、ロッサー・リーヴス---米国の広告人たちが目標にしていた先達たちでした。このうち、オグルビー氏の分を翻訳した清水啓一郎氏の了承をとりつけたので、再録し、志の高い広告クリエイターの参考に供します。 (chuukyuuが極度の「活字拒否症」に陥っているため、入力は若手のクリエイターの手を借りた---というか、入力(写経)により、偉大な先達のクリエイティビティ・パワーが、読むだけの数倍、移植されやすい)。この項の志願者は、コピーライター・赤星 薫さん。(写真=裏表紙 中央がオグルビー氏)


ニューヨーク84丁目の古びた褐色砂岩の家。ダヴィッド・オグルビーは、そのドアをあけて身体が痛そうにゆっくり歩きながら、奥の居間へ招きいれてくれた。
部屋の造作は英国の町屋風にしつらえてあった。壁の2面には、塵よけカバーをかけた本が幾段にも並んでおり、他の一面には3点の油絵が掛かり、みごとなつくりの炉があった。
オグルビーの説明によると、ここ数日間、背中の痛みや風邪などがいろいろ重なったため、会社を休んで家にいるとのことだった。
「仕事とおなじで、私は病気のときも3つ以上重なる」こういって顔をしかめ、「まあ、すわりませんか」とつけ加えた。
部屋を横切って、フランス式高窓の近くにある広い机のそばへ案内された。机の上には紙や鉛筆が散らばり、パイプ用の大きな灰皿、会社からの報告書などもおいてあった。
こうしたものの中になかば埋もれて、この祖国を離れているスコットランド人が書いたベストセラー『ある広告人の告白』が一冊見えた。オグルビーは私に腰をおろすように手まねすると、ちょうど熱いバスの中に身を沈めるように椅子に腰掛けた。


インタビューのはじまりである。


 アイデアを生むための方式をつくることを、多くの人が話題にしていますが、あなたはそんな方式をお持ちですか?
オグルビー アイデアを得るための方式らしいものをもっているから、イエスと答えるべきでしょう。
 広告のコピーは、他のものを書くよりもむずかしいと思いますか。
オグルビー コピーを書くむずかしさの一つは、短いということです。
印刷媒体でもテレビでもおなじです。テレビでは100語以内です。短いということは、すこしもやさしいことではありません。コピーをたくさん書くと、短くタイトに書くくせがつくので、長いものを書こうとすると、えらく苦労します。
 そんな経験がおありですか。
オグルビー 自分にできるかどうか確かめたかったので、2,3年前に本を書いたのですが、そのときは800語で、もう終わりという始末だったのです。それで、もっと長く書けるように勉強のやりなおしというわけです。
これまで幾人かの優れた作家が広告のコピーを書いてみましたが、結果は失敗でした。マルカン、ベネット、ヘミングウェイ、ショーなどが試みましたが、だめだったようです。もちろん、優れた作家はだれでもコピーを書きたがるというわけではありません。いいものを書くのは、なんの場合でもむずかしいものですが、いいコピーを書くのは、また容易なことではありません。
オルダス・ハクスレーだと思いますが、こんなことをいっています。「及第点をつけられる詩を書くのは、及第点のコピーを書くよりやさしい」私は詩人ではないので、これは私に関係ありませんが。
 一般的にいって、あなたがコピーを書くとき、広告主あるいはあなたのプランズ・ボードなどによってつくられた、基本的なルールにのっとって書こうと思いますか。それとも白紙からはじめますか。
オグルビー 基礎的なルールなしに、私はなにも書けませんが、白状すると自分自身のルルールをつくるほうが好きです。
どうすればいいコピーが書けるか、私は25年前よりも、ずっとよく知っています。それは勉強もしたからですし、広告の効果についての調査も重ねられたからです。みっちり訓練しないで、いいものは書けません。
 訓練というのは自分で課したものですか。それとも外部から与えられたものですか。
オグルビー 両方です。その点で私は幸運だったようです。というのは、私が最初のコピーを書いたのは39歳のときだったからです。コピーライターになる前に、私は調査をやっていました。ギャラップ博士といっしょに多くの調査をやりました。だから私の広告へのアプローチは、調査マンという視点からだったわけです。代理店をつくってはじめのうちは、他の仕事といっしょに、私は調査のディレクターもやっていました。金曜日に、コピーライターとしての自分のために調査メモを書くのが常でした。
月曜の朝、出社してメモを読み、その調査に関連したコピーを書いたのです。
だから私は、こうした自分自身の中の闘いをやってきたわけです。しかし、調査結果があり、基礎的ルールがあり、ディレクトがあり、データがあっても、コピーが書けたことにはなりません。それからドアを閉めてなにかを書かなければならないのですが、だれでもその瞬間をできるだけ先にのばそうとします。
 なぜですか。
オグルビー 私にとって、コピーを書くことは年々むずかしくなっています。できそうもないからです。ときにはすごくいいコピーを書きますが、書かなければならない時点では自分にまったく自信がないのです。失敗するのではないか思ったり、アイデアがでてこないのではないかと思うのです。たまたまいくつか有名なコピーを書いているので、事情はいっそう不利なわけです。私がどのように優れたコピーライターであるかという記事を読むのは楽しいのですが、それがまた問題です。というのは、自分でもいままではひじょうに優秀なコピーライターだったと思うだけに、いまでは、それほどでもなくなったのではないかと思うのです。
 いつだったか、あなたは「死火山」だといったことがあるように思いますが、たしかあれは、あなたのことばですね。
オグルビー そうです。
 なぜ、そんなふうにお考えですか?なぜむかしのタッチをなくしていると、お思いですか。
オグルビー まだ完全な死火山でないにしても、むかしのように、しばしば噴火しないのは事実です。(笑い)7年間ぐらいのあいだ、私はアイデアの固まりだったことを思いだします。いつもいいアイデアがでて、それが印刷され、そのいくつかは、広告の歴史に残ったものです。思い出すとあのころは、多産なライターだったと思いますが、いまはそれほどでもないようです。
現在では、マネジメントの責任が重すぎて、いいアイデアをだす時間がないのだと、自分で慰めていますが……どうも気休めです。アイデアがないのです。ときどきはでますが。(つづく


>>ダヴィッド・オグルビー氏のインタヴュー 目次


chuukyuu注】バーンバックさんとのインタヴューは『バーンバック氏、広告の書き方を語る』 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (了)


awaの会のメンバー 50音順・敬称略)
赤井恒和、秋山晶、秋山好朗、朝倉勇、糸田時夫、岡田耕、柿沼利招、梶原正弘、金内一郎、木本和秀、国枝卓、久保丹、栗田晃、小池一子、小島厚生、清水啓一郎、鈴木康行、田中亨、中島啓雄、西部山敏子、浜本正信、星谷明、八木一郎、吉山晴康、渡辺蔚。(その他の協力者)菊川淳子、高見俊一、滝川嘉子、秦順士