創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(128)『コピーライターの歴史』(6)【追記】

きょうのスターリング・ゲッチェルの手になるプリムス車のコピーによって、いわゆる全国媒体(当時の米国では、新聞ではなくて雑誌)への、無数の消費者を対象にした広告づくりが緒についたともいえます。つまり、読み手の顔がコピーライターに見えなくなったのです。それでも的を射抜くコピー! この章からの入力には転法輪(プロデューサー)さんのお力を借りています。転法輪さんに感謝。
【補】転法輪さんには、さらにお世話になりました。ジュリアン・L・ワトキンス編著『The 100 Greatest Advertisements 1852〜1958』を入手・貸与していただいたのです。追補のかたちで図版を入れることができました。それで、この章を再録しました。


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『コピーライターの歴史』(6)
スターリング・ゲッチェルの成功物語

ルドルフが勤めたことのあるJ・スターリング・ゲッチェル代理店(J. Sterling Getchell, Inc.)の創設者であるゲッチェル(J. Sterling Getchell)の話は、米国のコピーライターらしい成功物語でしょう。
ケネディやホプキンスの時代は、前にも述べましたように、妙な売薬を広告によって多くの人びとに売りつけるために、コピーライターの才能が動員された時代でもあります。

しかし、1906年に全国食料品および医薬品取締条例が制定されるや、とっぴな謳い文句はじょじょに圧迫され、制限されるようになっていました。

ゲッチェルが青雲の志を抱いて社会に出てきたのは、1930年代の初頭で、例の大不況から経済が立ちなおったころです。当時32歳だったゲッチェルは、
三つとも、とくと見てください(Look at All Three!)・・・・・・フローティング・パワーつきの新しいプリムスに試乗しない前に、どんな低価格の車もお求めにならないでください

という広告をひっさげてウォルター・クライスラー社長に会い、プリムス(Plymouth)の広告の扱いを一手に握ってしまったのです。
しかも、W.クライスラー社長自身を広告に登場させて---。
この「三つとも、とくと見てください」という広告は、フォードV-8のエンジンの強力な宣伝を巧みに利用したもので、プリムスの販売の歴史に一つの転換期を画したといわれています。
要するに、ゲッチェルの成功は、競争社会の製品あるいは広告に挑戦したところにあり、この伝統は、現在のDDBの広告にうけつがれています。


【告】あと、2,3章、前掲書から図版を引用して再録します。


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