創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(252)『メリー・ウェルズ物語』(27)

無償プレゼンテーションを受ける側のメンバーの資質について触れた文章に、これまでお目にかかったことがない。企業の主要な地位についているからといって、コミニケーションに通じているとはかぎらない。あるいは、何年先までの企業の信頼度を基準にして判断しているか分からない。裁定者の椅子に座っても人格は変わらないと誰が保証しよう。とにかく、プレゼン合戦をさせるときめたからには、受ける側もベストのメンバーを選ぶべきであろう。

第7章 100万ドルのボーナス(2)

▼「アップ、アップ---TWA」


8社によるプレゼンテーションの結果、カリフォルニアの毛むくじゃらで痩せた作曲家ジム・ウェップをうまく口説いたフート・コーン&ベルディング(FC&B)社に再び凱歌があがった。
ジムの曲の中に『アップ・アップ・アンド・アウェー・アウェー』というポップ調の曲があったのである。その歌詞は「私の美しい風船で飛んでみたくないか?」というようなものだ。
フィフス・ディメンションというロック・グループが吹きこんで大ヒットした。
どこからともなく、誰からともなく、TWAはこの歌がいいと思っているらしいという噂が流れ、各代理店がこの曲のコマーシャル権を取ろうと走りまわったが、結局、FC&Bが4万ドル(1,440万円)で手に入れて歌詞を「アップ・アップ・アンド・アウェー・TWA」と変えてプレゼンテーションした。
コマーシャル・ソングとは別に『異国情緒の旅』というアイデアが考えだされた。『異国情緒の旅』のアイデアのもとになったのは、できるだけ早く目的地へつきたいタイプ、不安な気分で乗っているタイプ、機内で余興や慰みを楽しむタイプの3種類のビジネス旅行者のうち、不安組と享楽組を引きつけよというものである。つまり機内にパリのカフェや英国のバーのムードを持ちこんで、国内線を国際線の感じにしようというわけだ。
落とされた7社の中には「今後TWAの飛行機に乗るくらいなら歩いたほうがましだ」とまで言って、面子がつぶれたことと巨額の試作費が無に帰したことを憤慨する社もあったというから、プレゼンテーション合戦がニューヨークの広告業界でどんなに注目を集めていたかわかる。
(ついでに老婆心までに。無料プレゼンテーションは要注意。広告人種というのは風評操作に長けている。とくにインターネットが広まってゆく今後は---)。

▼グラマーよりキップを売れ

1967年の第4四半期と68年の第1四半期の航空業界の不景気はさらに進行していた。とくにTWAの成績は不振で、この6ヶ月間に約1,500万ドル(54億円)の赤字を出す始末であった。
局面打開のためにTWAは、セールス、旅客サービス、スケジュール編成、広告などの機能をまとめて一人の責任者にまかせることにし、ユナイテッド航空マーケティング担当副社長であったブレーン・クックを引き抜いてその地位を与えた。
1968年の3月のことである。
クック副社長は、航空会社のマーケティングの鍵となるのは、競争相手よりもすぐれた基本サービスを提供することであって、その点からみるとフート・コーン&ベルディング社のプレゼンテーションはTWAがかかえている問題とは全く無関係のもので、単に「付加的な」ものにすぎない---と考えていた。
「わが社の広告は見かけはいい。派手で気がきいている。よく演出されている。しかしその効果は、グラマーを売るだけでキップを売ることになっていない。TWAの営業面の問題に直結していないのだ」(『プレジデント』1969.3月号)というクックの言葉がそれを示している。
クック副社長は別の広告代理店を起用すべきだと、チャールズ・ティリンガースTWA社長に進言した。
『異国情緒』キャンペーンは最初は好評で、営業成績もニューヨーク=ロサンゼルス線が1位、ニューヨーク=サンフランシスコ線が2位を記録したが、イタリア料理を運んでくるスチュワーデスがフランス調の衣装を着ているなどのチグハグがつづいて、客もTWAを見放すようになっていた。
クック副社長が目をつけていたのは、ブラニフ航空の広告を演出しているメリー・ウェルズであった。彼は、メリーが考えだしたブラニフの各種キャンペーンを高く評価していた。
できることならTWAをメリーにやってもらいたいと考えた。しかし米国の広告代理店は同業種の広告主を引き受けない習慣になっているので、メリーがTWAをやるためには、ブラニフを断わらなければならなかった。


続く >>