創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(251)『メリー・ウェルズ物語』(26)

20世紀末にアメリカン航空に併呑されたTWAだが、開業中、WRGが打ち出した100万ドル・ボーナス・キャンペーンは、これまで誰も考えつかなかった、モラールアップ促進を果たすための、すばらしいアイデアといわれている。そのアイデアが実現するまでの、業界秘話を織りまぜて公開してみよう。

第7章 100万ドルのボーナス(1)

▼2億8000万円の浪費


1969年8月15日---。
ウェルズ・リッチ・グリーン(WRG)社が創業以来のアカウント(お得意の広告主)であったブラニフ航空にさようならを告げて、代わりにトランス・ワールド航空(TWA)の広告を扱うことになった---という突然のニュースに、暑さにうだっていたニューヨークの広告界は仰天してしまった。
その理由(わけ)は、プラニフ航空のハーディング・ロレンス社長がWRGの女社長メリー・ウェルズの夫だったことと、一方のTWAが11ヶ月前の広告の扱い代理店を引きつづきフート・コーン&ベルディング社(当時7位)に決めた時の大騒ぎの記憶が、まだ、マジソン街の人びとの脳裏の焼きついていたからである。
TWAとフート・コーン&ベルディング社のいきさつから始める。これには覆面の経営者といわれるハワード・ヒューズが関係している。
そう、飛行機と映画にとりつかれたあのヒューズである。
1937年にTWAの支配権を手に入れた32歳のヒューズは、1948年にRKOの支配権も買いとった。
その時からRKOの広告扱い代理店フート・コーン・ベルディングにも関係することになったヒューズは、彼が支配している各会社の広告の扱いをつぎつぎとフート・コーン&ベルディングに任せていった。
そういうわけでTWAも1956年からフート・コーン&ベルディング社を広告代理店として使うことになったのである。
5年後の1961年、ヒューズはTWAの支配権を失ったが、どうしたわけかTWASフート・コーン&ベルディングの関係はそのままつづいた。これはよくある話で、最初のいきさつはともかく、5年も8年取り引きがつづいていると、自然と人間関係ができあがってしまうものである。しかも両者の場合は、ちょうどそのころから米国の航空事業が黄金期を迎えていたので、広告の良し悪しはほとんど問題にならなかったせいもあった。
しかし、1967年ごろから航空業界の雲行きがおかしくなりはじめ、フート・コーンがつくっていたTWAの広告にも批判の目が向けられるようになってきた。
そこで、TWAの幹部たちは、フート・コーンを含めて9つの広告代理店に新しいキャンペーンのプレゼンテーションを行うように声をかけた。
もし、その広告代理店に広告予算をあずけたとしてら、どういう広告戦略をとるかを提示説明させる行事で、TWAのような巨大な広告予算をもっている広告主の場合には、代理店としても先行投資のつもりで社の全力を傾けてとのくむことになる。
9社の中には、当時米国で第4位の広告代理店であったマッキャン・エリクソン社、第8位でテッド・ベイツ社、そしてドイル・デーン・バーンバックDDB)も入っていた。
ところが、クリエイティブに関して絶対の誇りを持つDDBは「御社が航空運賃を無料になさるならわが社も無料プレゼンテーションに応じますかね---」と言って参加を断ったので、結局残る8社がTWAへのプレゼンテーションを引き受けた。
各社とも10万ドル(3,600万円)近い費用をかけてプレゼンテーションを準備したというから、80万ドル(2億8,000万円)のカネが浪費されたことになる。
全くの浪費である。
採用になるのは8社のうちの1社だけである。
米国の広告業界では、こうした浪費が年間で少なくとも2,000万(72億円 1ドル=360円時代)ドルはあるといわれている。
もちろん、中にはDDBのように「プレゼンテーションのために浪費するカネは、結局現行アカウントから得た利益からまわすカネである。現行のアカウントこそ大切であって、当社にはそんなムダ使いをする気はない」と無料プレセゼンテーションを拒否する広告代理店も2、3ある。
DDBは「これまでわが社が他のクラアントのためにやった広告キャンペーンを見てもらえば、わが社の実力はわかってもらえるはず」と豪語してはばからない。
つまり、日常のクリエイティブ活動が即プレゼンテーションというわけである。
しかし、キレイごとばかり言ってもいられないというのがほとんどの代理店の実情のようだ。


続く >>