創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

(199)チャック・コルイ氏とのインタヴュー(4)

Doyle Dane Bernbach Inc. Vice President, Copy Group Supervisor

『劇的なコピーライター』誠文堂新光社 ブレーンシリーズ 1971.3.10 絶版 からそのまま転載)。
公共奉仕広告(public service ad)」から一歩進んだ「抗議広告(protest ad)」の実際を示して、今後のコピーライターのあるべき姿を教えてくれた点で、本書の2番手においた。
オリン企業広告(corporate ad)でも、社会教育的な情報を中心にすえたコピーで、ライターの思想・社会とのかかわりあいといったものを暗示している。

意見を異こするクライアントとはきっぱりと別れる


chuukyuu 「創造性を豊かにする自由、あるいは環境という点で、DDBとほかの広告代理店の根本的な違いは? またそれがコピーライターにどんな影響を及ぼしますか?」


コルイ「たった今お話したことが質問の答えになっていると思うのですが---。DDBでは、なにか奇抜なことをするのにビクビクする必要などありません。
もし、みんなの賛同を得られないものとしても---そういうこともあるにはありますが---それは私たちにとってもクライアントに提出するにはあまり奇抜すぎるか、クライアントの広告としては奇抜すぎるかのどちらかの理由によるからなのです。


とにかく、私たちは何をする場合でも恐れる必要はないのです。私たちは時どき、自分の型というものから離れてみようとするべきです。多くの場合、それは、たった一語を変えるだけのことです。実際そのことはその広告をだめにするものではなく、その広告から先鋭さを取り除くものなのです。
クリエイティブな人間からこういうことを聞くとさぞかしびっくりなさるだろうと思います。なぜなら、クリエイティブな人間というものは、『おお、私のコピーのほんの一語にも手を触れないでください。コピーがだめになってしまいます』というにきまっているというイメージが頭の中にあるからです。
それは間違いです。クリエイティブな人間にも妥協が必要です。つまり、そうすることも務めのうちであり、プロフェショナルであろうとするなら、ほんとうの目標は、妥協すべき時を知ることにあるのです。ただ自分の方法を押しつけることをしないで、広告をだめにしている時、だめにしていない時を知らなければならないのです。このことは、広告以外のことでも同じです。


ちょうど、ギブ・アンド・テイクのようなものです。おかれた環境の中でベストを尽くせばいいのです。
最高の環境の中におかれた私たちは、ラッキーだと思います。ですから、ほかの代理店にいるだれよりもよい解決策でもってそれに立ち向かうことがでるのです」

DDBには、いっしょに仕事をしたいと思わせる何かがある


chuukyuu 「DDBの社員はどの程度、この代理店の雰囲気を理解していますか?J


コルイ「みんな知っていますよ。雰囲気のよさでは高い評判をとっている代理店ですから、たとえ、きょうここに入社してきた人でも、自然にそれを期待しているのですから、ここが騒々しい世界で、なんでも好き勝手なことができるところと考えて入社してきた人が何人かいましたが、これは規律の問題なのですからね。私たちの生活にはすべて制限があります。そして、たとえ、狭いところにおかれても、広いところにおかれても、私たちはその中でベストを尽くさなければならないのです。ほら、野球の選手だって、ファウルラインを越したら、それがどんなに大きな飛球だとしても、ホームランではなくなってしまうでしょう」


chuukyuu 「団結心といったものはありますか?」


コルイ 「あると思います。とはいえ、DDBには1,400人もの人間がいるのですから断言はできませんが、私が知っている人びとに関しては、持っているといえます」


chuukyuu 「DDBの名声と雰囲気にあった行動をとるために、どのような注意をしていますか?」


コルイ 「各人が最善を尽くすことによって、努力しています。でも、これは代理店のためのみではなく、自分自身のためにもそうしているのです。なぜなら、ここの標準は、代理店の標準としては高いものだから(こういう言い方が適当なものでないとしても、とにかく、標準は高いといえます)なのです。つまり、代理店の標準というものは、その中で働いている各人の標準の全体的なものということですよね。もちろん私は、このような考え方が、ひどく概括的なもので、その中には例外があるということを知っています。しかし最高の標準を持った人、そして、努力によってそれにたどりついた人、そういう人びとは、先に立って歩調を示すものです。そうすれば、私たちはその人たちと比較して自分を測ります。
あるいは、まったくみすぼらしい才能を持っている他の代理店の誰かと自分を比較するということもあります、そうした時、称賛の気特ちと同時に、羨望の気持ちが起こると思うんですよ。ほとんどのクリエイティブな人間は、すごい競争意識を持っていますからね。才能のある人びとに囲まれているということは、確かに価値のあることです。まわりの人びとから刺激を受けて、みがかれて、そして、私たちは成長するのです」


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当社を、オリンとだけ呼んでいただきたいのです。


当社の正式社名の、オリン・マチスン・ケミカル・コーポレーション---12シラブルもあって、長たらしすぎます。呼びにくいですね。覚えにくいですね。そこで、今日からは、正式社名はそのままにしておいて、当社自身が、オリンと呼び捨てにすることにします。


chuukyuu付記】(『効果的なコピー作法』より転載)
1960年3月24日の『ニューヨーク・タイムズ』に載った全ページ広告です。読んでみましょう(上記訳文略)
この広告は、オリンが、ドイル・デーン・バーンパック(DDB)社へアカウントを移して(1960年)からできた、最初のものです。DDB社とオリンとのあいだにアカウントが開いたとき、DDB社のバーンバック社長(当時)、アート・デイレクターのロバート・ゲイジ副社長、コピー・チーフのフィリス・ロビンソン副社長が、オリンの重役たちの前にのぞんで、開口一番、バーンバック社長の口からとび出たことばが、「私たちは、きょうからは、貴社をオリンとだけ呼びすてにさせていただきます」といった伝説的アイデアを広告につくりあげたものです。


(注)オリン・マチスン化学会社から1960年にきたアカウントは、企業広告、パッケージ財、ウィンチェスター銃、金属材、ファスナー、社員募集の6事業部。
のち、1961年に有機化学事業部、1962年に化学事業部も依頼してきた。


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